最終回 ヘスペリデスの苑を探して:黄金の果実が燃える南の楽園
きみ知るや南の国。レモンの花咲き、
暗き木陰に、黄金なすオレンジ燃え(…)
ゲーテ著、山崎章甫訳『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』(上)、岩波文庫、227頁
ひとつの国をまるごと大きな美苑になぞらえてみる。国土の素晴らしさ、景観の美しさを、咲き誇る花々や果蔬の豊穣な実りとして言祝ぐ。そんな「園芸メタファー」ともいうべき壮大な見立てが、西欧では伝統的にひとつのトポス(常套主題)をかたちづくってきた。とりわけその種の賛辞が好んで捧げられたのがイタリアだ。皆がこぞって、この長靴形の半島を巨大な庭園と同一視し、その豊麗と明媚な風致を讃えた。
古典文芸においては、古代ローマ帝政期の詩人ウェルギリウスの『農耕詩』第2巻におさめられた「イタリア賛歌」が有名だ。その冒頭部では、あえてまず異邦・異境の自然環境の豊かさを数えあげたうえで、それらとて自国の栄光には及ばぬ、というレトリックを駆使し、読者の心に麗しき帝国本土のイメージを刻み付ける。
そのウェルギリウスを師とあおぐダンテは、『神曲・煉獄篇』第六歌において、イタリアを「皇帝の庭」に喩え、その荒廃ぶり(=十四世紀当時の半島の不安定な政情)を嘆いてみせた。ここでいう皇帝とは神聖ローマ帝国の長をさす。つまるところイタリアとは、「ローマ」皇帝によって庇護されるべき御苑であるという認識が、時代を超えて受け継がれてきたといえる。
これらの詩句は、イタリアに生を受けた者が見た故国の姿、つまり「庭の内側」に発する視線に基づいていた。これに対して、アルプスの北側からこの地中海に突き出た半島を望む者たちは、また別のイメージを醸成してきた。それこそが、ゲーテが作中の愛すべき孤児ミニヨンに託して絶唱した、レモンの花咲く南の国、黄金のオレンジがたわわに実る温暖な楽園、という甘美な世界である。歌は続く──きみ知るや、かの国を。かなたへ、かなたへ、おお、いとしき人よ、ともに行かまし。
現代は園芸技術が進展し、世界中の果物が季節を問わずいつでも手に入る。だからつい見落としてしまうのだが、十九世紀以前の人々、とりわけ寒冷な気候条件のもとに暮らす中・北欧地域の住人たちにとって、レモンやオレンジなどの柑橘類こそは、まごうことなき南国のシンボルであった。それらの豊大甘美な漿果が、馥郁たる芳香をあたりに濃厚に漂わせ、鈴なりに熟れる姿は、まったくの別天地を思わせる光景であっただろう。ゲーテも1786年のイタリア旅行で、うわさに聞いた当地のレモンやオレンジの果樹園を自ら眺め、その香り、触感、酸味を満喫したのだろう。その時の記憶が後年、耳に心地よき可憐な詩歌となって結実した。
柑橘類すなわちレモンやオレンジなどは「ミカン属」(Citrus)に属する果樹である。その原種は三つ、①中国原産のマンダリン(Citrus reticulata)、②マレーシアとマレー諸島に生えるブンタン(Citrus maxima)、③北インドのヒマラヤ山脈の斜面に育つシトロン(Citrus medica)とされる。この三原種やその亜種をもとに交配を重ねることで、オレンジ(=マンダリン×ブンタン)やレモン(=シトロン×ダイダイ)など、我々に馴染みの品種が生み出された。
いまではすっかり地中海の景色になじんでいるが、これらの黄色や橙に輝く漿果がヨーロッパにもたらされたのは、アレクサンドロス大王の東征(紀元前四世紀)以降とされる。遠征軍がペルシアの地から持ち帰ったものが、徐々に地中海沿岸から中欧地域にひろがっていったのだ。大航海時代になると新大陸にも持ち込まれ、十七世紀にはカリブ海諸島でグレープフルーツ(=ブンタン×オレンジ)が生まれている。現代ではオレンジやレモンの世界的産地といえば、ブラジルやメキシコに指をさす。ずいぶんと原産地を遠く離れたものだ。
柑橘類の栽培は常に寒さとの闘いであった。果実が冬に熟すため、霜に弱いのだ。地中海に浸るイタリア半島はたしかに温暖であるが、中部以北では冬の寒さがそれなりに厳しく、越冬の工夫を凝らさない限り柑橘類は枯れてしまう。したがってイタリア人にとっても、オレンジやレモンは珍奇にして貴重な果実であった。だからこそ、手間暇かけて育成し、その黄金の実りを自ら楽しみ、かつ北方の人々に自慢したのだ。
西欧人が柑橘類の実にことのほか強い思い入れを抱くのは、それが楽園の伝承とも結びつくからだ。すなわち古代ギリシア神話におけるヘスペリデスの苑である。ヘラクレスの十二の難行の十一番目のミッションに登場する、島の形をした庭だ。西の海の彼方、世界の最果てにあるとされるその常春の仙境には、聖なる樹木が生え、「黄金の実」がなるという。それを口にしたものに不老不死の力を授ける、一種のマジック・アイテムだ。
神話の筋書きはさておくとして、日本語では黄金の「リンゴ」と訳されることが多いこの(黄金の)「実」という語、原神話がラテン語に翻訳される際にpomumとされた。これは果実一般を指す単語なので、実はオレンジやレモンの語を充てても問題ない。しかも黄金に光り輝くとなれば、断然、黄色や橙色の果物のほうがふさわしかろう。そんなわけで、特に古典古代の文化への関心が高まったルネサンス期以降には、ヘスペリデスの苑のシンボルとして、柑橘類にあつい視線が注がれることになった。その貴重な果樹を枯らさずに育て、文字通り庭を古典化することができたイタリア人たちは、さぞ鼻が高かったことだろう。
さて、その柑橘類のシンボリズムを徹底的に追求したのが、都市フィレンツェを支配し、のちにトスカーナ大公国の君主となったメディチ家であった。あの庭狂いの一族である。彼ら・彼女たちのオレンジ/シトラス愛好は、その家紋にも投影された。一般にはメディチの紋章といえば、盾の上に六つの赤い球が並んだ図匠だ。これは祖先の家業たる、薬種商/医師を表す丸薬をかたどった形象とされている(図1)。けれどもいつしかこの球体が、黄金の果実にも見立てられてゆく。
(図1)
その隠れた繋がりを示唆する一幅の絵がある。サンドロ・ボッティチェッリの傑作≪春≫(1480年ごろ)だ(図2)。制作の経緯は不詳ながらも、この絵がメディチ家のメンバーの婚姻を祝福する目的で描かれた可能性が高いとされる。神話上の華麗な人物たちが画面を埋め、足元には春の花々が咲きこぼれている。女神やニンフの頭上に注目すると、そこには薄暗い枝葉を背景に、鮮やかなオレンジ色に熟した無数の漿果が、まるで天の星々のように輝いている。古代神話に通暁した者の目には、神々が舞う庭、すなわちヘスペリデスの苑に結実した黄金の仙果とも映ったのではなかろうか。
(図2)
このルネサンス絵画の傑作は、紆余曲折を経たのち、十六世紀中葉には、メディチ家がフィレンツェ近郊に所有するヴィッラ・カステッロに所蔵されていた。その庭園こそは、メディチ家の壮大な柑橘類コレクションの場としてヨーロッパ中にその名を知られた、「甦ったヘスペリデスの苑」であった(図3)。注目すべきは庭園の中央軸上、ヴィッラ建築の正面に据え置かれた巨大な噴水である(図4)。その頂部には、アンマンナーティ作の巨大なヘラクレス像がアンタイウスを締め上げる場面が造形されている。ギリシア神話の無敵の英雄は、これから黄金の果実を求めて苑に赴くのか、あるいはその帰り道か──
(図3)
(図4)
十六世紀末の同庭園の様子を描いた絵画・図3を見て欲しい。その画面中央やや上に、巨大な鉢植えが整列しているゾーンがある。ここがメディチ自慢の柑橘類の栽培区画で、記録によると1561年には300本以上のオレンジの木があったという。そのコレクションは外国人をも惹きつけた。1564年にはフランスの博物学者ピエール・ブロンが訪れ、オレンジやレモンが、まるでタペストリーのように庭の壁を覆っている様に感嘆している。また1581年にはイタリア旅行中のミシェル・ド・モンテーニュもぶらりと立ち寄り、やはりオレンジやレモンなどの芳香樹の見事さを褒めている。異邦の名だたる知識人たちも、園内にたわわにみのる黄金の果実群に、強い衝撃を覚えただろう。
これだけの柑橘類を育てることができたのは、リモナイア(limonaia)と呼ばれる温室が早くから整備されたおかげであった。この種の設備は十六世紀になるとトスカーナ一帯の庭園では必須となり、冬になると鉢植えのオレンジやレモンが運び込まれ、冷気や霜から保護された。リモナイアは一般に南向きに設え、保温性能の高い煉瓦や石で壁をつくって冷気や風を防ぐ。炉を補助的に使うこともあった。人工的に常春の環境を整えることで、ヘスペリデスの苑を再現していたともいえる。
時は降って十七世紀、その名も『ヘスペリデスの苑、あるいは黄金の果実の栽培と活用法』(Hesperides, sive, De Malorum aureorum cultura et usu)なるタイトルの本が、1646年にローマで出版された。著者は修辞学/ヘブライ語教授にして園芸理論家でもあったイエズス会士、ジョヴァンニ・バッティスタ・フェッラーリ(1584-1655年)。
フェッラーリは、教皇ウルバヌス八世(在1623-44)の一族であるバルベリーニ家と関係が深く、その園芸管理人に抜擢された。同家は財力に物を言わせて、アメリカ、アジア、アフリカの地から無数の珍花奇葉・珍木異草を取り寄せていたから、フェッラーリは存分に己の園芸知識を深めることができた。その彼が、後半生に総力を挙げて取り組んだのが、当時のローマ園芸界の主役たる、柑橘類の研究であった。
古代にイタリア半島にもちこまれた柑橘類は、やがて地方ごとに独自の交配を重ね、複雑に品種が枝分かれしていた。土地によって呼び名もばらばらだ。なかには、これが祖先を同じくする果樹かとあきれるほどの、(特に果実の)著しい形態の差異が見られた。フェッラーリは果敢にも、これら黄金の実の分類に取り組んだのだった。その成果をまとめた『ヘスペリデス』には、精密な図譜が80点も付されている。
彼の一番の功績は、この厄介な果樹群を、シトロン、レモン、オレンジという三つのカテゴリーに厳密に分類したことである。さらに、これらの種に頻繁にみられる珍妙で偏倚な果実を徹底的に分析し、その逸脱した形状の原因を突き止めようとした点も特筆される(図5)。まるで子を孕んでいるようなオレンジ、人の手の指のようなシトロン、牛や鹿の角あるいは鳥のくちばしがにょき!と生え出たようなレモン……。
(図5)
精密な観察と比較研究に基づくフェッラーリの分析は、当時としては最先端をゆくもので、近代園芸学の確立に大きな貢献をなしたものと評価できる。けれども時代の制約もあった。何より修辞学者にして文芸のエキスパートたる彼の知的バックグラウンドが、時に、異形の果実の由来を、詩的に語らせた。いわく、指のあるシトロン(図6)は、魔女によって木に変えられた青年の神話に由来する。また、皮に走るギザギザの突起は、人類の始祖アダムが噛んだ跡に違いない。
(図6)
フェッラーリは同書のなかで、柑橘類の分類作業があまりに困難であることを指して、ヘラクレスの十二の難行にも匹敵する、と嘆じている。だが当代のヘラクレスたる彼は、いくぶんかの文学的綺想も駆使して、一見無秩序に見える果実たちを見事に腑分けしてみせた。これを、詩と科学を恣意的に混淆する前近代的な幼稚さ、と難じるよりは、文学と自然科学が豊かに融合し得た最後の世代の果実と見たい。フェッラーリは確かに、仮想のヘスペリデスの苑のただなかで、「完璧な分類体系」という、黄金に輝く知の果実を手に入れたのだ。
我々もまた、この園芸好きの知的英雄のひそみにならって、美しき庭園めぐりのなかから瑞祥の仙果を手に入れたいものである。
【主要参考文献】
・ゲーテ著、山崎章甫訳『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』(上)、岩波文庫、2000年
・ピエール・ラスロー著、寺町朋子訳『柑橘類の文化史:歴史と人との関わり』、一灯舎、2010年
・ヘレナ・アトレー著、三木直子訳『柑橘類と文明:マフィアを生んだシチリアから、ノーベル賞をとった壊血病薬まで』、築地書館、2015年
・A. Tagliolini & M. Azzi Visentini (a cura di), Il giardino delle esperidi: gli agrumi nella storia, nella letteratura e nell’arte, Firenze, Edifir, 1996.
・D. Freedberg – E. Baldini (eds.), The Paper Museum of Cassiano Dal Pozzo: Citrus Fruit, London, Harvey Miller Publishers, 1997.
【図版出典】
図1:メディチ家の紋章
https://it.wikipedia.org/wiki/Stemma_dei_Medici#/media/File:Coat_of_arms_of_the_House_of_Medici_(old)_-_type_2.svg
図2:ボッティチェッリ≪春≫
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3c/Botticelli-primavera.jpg
図3:ジュスト・ウテンス画《ヴィッラ・カステッロ》
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/5e/Castello_utens.jpg
図4:ヘラクレス像
筆者撮影
図5:『ヘスペリデス』掲載の異形果実
Giovanni Battista Ferrari, Hesperides, sive, De Malorum aureorum cultura et usu, Roma, Herman Scheus,1646.
図6:いわゆる佛手柑
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Buddhahand.jpg
*本連載は小社から書籍化の予定です。