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「ヨーロッパ綺想庭園めぐり」桑木野幸司

第2回 天翔ける苑:オルティ・ファルネジアーニの尚古・博物学的庭園

 紀元前八世紀ごろの「お話」である。王家嫡流の血を引くその双子の兄弟は、生まれた直後、謀略によって濁流に流されたという。ところが奇跡的に下流の岸辺に打ち上げられ、腹をすかせた赤子らは火のついたように泣き出した。その声に引き寄せられたのが、乳の張った産後間もない雌狼──よく知られたローマ建国神話の冒頭部である。双子の名はロムルスとレムス。
 やがてたくましい青年に育った二人は、見事復讐を果たして国家秩序を回復したのち、今度は自分たちの国を興そうと望んだ。狼に救われたあの岸辺がいい。けれども大河テーヴェレが蛇行するその地は一面の湿地帯で、健康な土地は七つの高地のみ。そこでロムルスはパラティヌスの丘を、レムスは南のアウェンティヌスの丘を拠点に選んだ。両者一歩も譲らない。
 こんな時は神意を仰ぐに限る。古来の鳥占い、すなわちそれぞれの丘に立ち、天を飛翔する鳥の数を競うのだ。ロムルスは十二羽、レムスは六羽を見た。こうしてパラティヌスの丘一帯は都市ローマの最初の居住区(Roma quadrata)となり、城壁で囲まれた。

 今、そのパラティヌスの丘は、隣接するコロッセオやフォロ・ロマーノなどとともに「考古学公園」として整備され、観光客でにぎわっている。建国神話に彩られた丘の上にはかつて、歴代のローマ皇帝の宮殿や神殿、高級住宅がひしめき、百万都市ローマの中枢を形成していた。もちろん古代の建物はその後みな廃墟化し、大半が地中に埋まった。
 そんな遺跡群にまじって、丘の北端に、明らかに時代が新しい、ひときわ壮麗な双子の塔がそびえている(図1)。ここは一種の展望台のようになっていて、眼下にはフォロ・ロマーノの眺望が広がる。真正面には巨大なマクセンティウスのバシリカのアーチがぽっかり口を開け、その背後には遥か彼方までローマの市景を遠望できる(図2)。右手に視線を向ければ魁偉なコロッセオの雄姿。


図1 双子の塔
筆者撮影

 


図2 塔からフォロ・ロマーノを見る
筆者撮影

 実はこの望楼が、十六世紀後半から建設が始まった大庭園の一部であったことを知る人は少ないだろう。双塔の北側、すなわちフォロ・ロマーノに降りくだる急な斜面も、塔の南側に広がる丘上の平坦地も、かつてはひとつの巨大な庭園だったのだ。そんな破格の緑地を造成したのは、大の尚古・考古学マニアとして知られる名門ファルネーゼ一族。並び立つ二つの塔はローマ建国の英雄兄弟への暗示だろうか。その推察は、かつてその頂部に金網のドームがかかり、巨大な鳥小屋として機能していたことを知るなら、確信へとかわるだろう。フォロに向かって放射状に開いた角度でそびえるかつての鳥舎は、あたかも丘から天空に飛び立つ鳥の姿にも見える。あの、ロムルスに建国の誉れを与えた神のメッセンジャーとしての聖鳥の姿に。

 今でこそ古代ローマの貴重な遺構として保護管理されているパラティヌスの丘も、その足下のフォロ・ロマーノも、帝国が崩壊した古代末期以降はしだいに荒廃が進み、すでに中世初期の時点で風化が甚だしかった。丘の上にはブドウ園がのどかに広がり、フォロは放牧地であったというから驚きだ。
 そんな状態が十六世紀初頭まで続く。当時のローマ教皇は広大な領地を有する世俗権力の長でもあり、ヨーロッパの国際政治を舞台に危うい綱渡りをしていた。その繊細なバランスに狂いが生じたとき、聖都は未曾有の悲劇に見舞われる。神聖ローマ皇帝カール五世の軍隊による徹底的な略奪と教皇の捕囚という、未曽有の災難を蒙ったのだ。世にいう「ローマの劫略」(サッコ・ディ・ローマ)事件(1527年)である。もともと5万人程度(!)だった都市人口は一気に半減し、政治・経済・文化の広範な領域にわたって壊滅的打撃を受けた。マーリオ丘陵に造営中のメディチ家の豪奢なヴィッラ庭園(ヴィッラ・マダーマ)も、建設の中途で放棄されてしまった。
 その後、紆余曲折を経て帝国と教皇は和解し、都市は復興へと向かう。その機運のなかで、パラティヌスの丘とフォロにしだいに注目が集まる。最初の契機は1536年のカール五世入市式。前年にチュニス遠征を成功させた神聖ローマ皇帝を迎えての、古代風の凱旋式典である。ファルネーゼ家出身の時の教皇パウルス三世は、かつて聖都の劫略を引き起こしたこの武人に、歴史と伝統の威厳を誇示したかったのだろう。放牧地だったフォロ・ロマーノを整備し、堂々たる凱旋道を通して皇帝を迎えた。このとき天然の観客席となったのが、パラティヌスの丘の斜面である。
 その教皇の孫が、後に「大枢機卿」(グラン・カルディナーレ)の異名をとったアレッサンドロ・ファルネーゼ(1520-89年)である。彼が1542年にパラティヌスの丘の北斜面を購入したのを皮切りに、世紀後半にかけて一族によって徐々に丘一帯の土地が買い占められてゆき、ついには、ロムルス伝説にうたわれるRoma quadrataの大半がファルネーゼ家の所有になった。
 すでに十五世紀末には古代ローマ熱が巻き起こり、遺跡断片や古代彫刻のコレクションが人気を博していた。そんななか、パラティヌスの丘のみは、建国神話のオーラにつつまれてある種の不可侵の聖域とみなされ、未開発のまま残されていた。その一瞬のすきをついて、一族は瞬く間に、丘上のかつてのドムス・ティベリアーナのほぼ全域とドムス・フラーヴィアの一部を含むゾーンを獲得。ローマの神話と歴史をまるごと購入したのだ。

 こうして得られた土地を華麗な庭園として整備したのが、オルティ・ファルネジアーニ(Orti Farnesiani)。文字通り「ファルネーゼ家の庭」という意味で、園内には居住施設はなく、あくまで一時滞在用のリフレッシュ空間であった。都心部に豪華な邸館をいくつも所有していたファルネーゼ家だからこそできる贅沢だ。
 デザイン的に注目すべきは、フォロ・ロマーノに面する丘の北側斜面の構成である(図3-1, 3-2)。ここが見事に、ブラマンテやラッファエッロらが追求した、「軸線」と「テラス」の組み合わせによるダイナミックな造園となっているのだ。おもに十六世紀後半に整備されたこのゾーンを、下から順番に見てゆこう。


図3-1 平面図(右がフォロ・ロマーノ側)
出典:Van de Ree et al., Italian Villas and Gardens, Munich, Prestle 1992.p. 117, fig.6.

 


図3-2 フォロ・ロマーノから見たオルティ・ファルネジアーニ(P.M. Letarouilly, Horti Farnesiani. Sezione e vedute, 1868より)
Marcello Fagiolo, Vignola: l'architettura dei principi, Roma, Gangemi 2007, p. 101, fig. 64.

 フォロに面する敷地境界には、背の高い壁が東西にまっすぐに走り、その中央に二層構成の門扉が立ち上がる。壁の裏(丘)側に沿って擁壁が走り、その上を散策できた。壁にあいた窓からは、北側に広がるフォロの姿を楽しめた。
 その中央門から庭に入ると、擁壁通路の下をくぐるかたちで、屋根のない半円形の広場に導かれる。ここはテアトロ(劇場)と呼ばれ、曲面に穿たれた壁龕には古代彫刻がディスプレイされていた。
 ここから、中央軸上にまっすぐ斜路が延び、上りきったところが、クリプトポルティコと呼ばれる半地下ゾーン。その上の第二テラスが屋根となり、閉じられた方形の部屋を形成している。薄暗い空間の正面奥(南)は壁で閉じられているから、それ以上まっすぐ進むことはできない。代わりに、部屋の左右(東西)に上段テラスに続く階段が設けられている。つまり、フォロを下、丘の頂上を上とするなら、Tの字のような動線になっているのだ(図3-3)。
 左右どちらの階段を使っても、いったんは中央軸線から逸れることになる。上った先(第二テラス)でぐるっと180度回転し、再び中央軸線に戻って、そこから階段──この下に先ほどのクリプトポルティコがある──を使ってさらに上昇し、ようやく三段目のテラスにたどりつく。


図3-3 丘上までの動線を赤で示した。図3-1を加工

ここがちょうど双子の塔の足下にあたる。やはりここでも左右どちらかに分かれ、塔をぐるっと回りこむようにして階段をのぼってゆくと、ついにパラティヌスの丘上に至るのだ。

 このように、強力な中央軸線を設定しつつも、単調な動線とはせず、視線を左右に振り、時には反転させることで、上昇運動ともあいまって、散策者は多彩な景観の変化を楽しむことができる。これは、ブラマンテがヴァティカンのベルヴェデーレの中庭で開発したデザインを、ずっと洗練させたものだ。

 オルティ・ファルネジアーニの象徴ともいえる双子の塔は、十七世紀に入ってから作られたものだ。丘に登ってゆく人から見て左手が、旧鳥舎(Uccelleria vecchia)と呼ばれ、先にできた。この時の庭の持ち主はオドアルド・ファルネーゼ枢機卿(1573-1626年)。興味深いのは、この塔が、丘の軸線からは少しずれた角度で建っていることだ。これは、丘上の古代遺跡の遺構を、鳥舎の基礎に取り込んだためであった。
 そして数年後(1630年代初頭)、庭の所有者が代替わりしてから、その隣(東)に、まったく同じ形状の塔が建つ。その際、斜面の中央軸線を二つの塔の間に貫通させ、ちょうど線対称になるよう設計した点が秀抜であった。この措置によって、双塔は眼下のフォロに対して翼を広げたような配置となり、丘の斜面と、丘の上との軸線のずれを、見事に吸収しているのだ。
 こうしてオルティ・ファルネジアーニの北面は、壮麗なテラス庭園を構成し、その上昇ベクトルは最上段の双塔によって一気に強調され、はるか蒼穹にまで達する推力を得たのだった。そして空と塔を一体化しているのが、頂部に設けられた鳥舎である。金網で覆われたドーム内には、新大陸産他の色とりどりの奇鳥珍禽が羽ばたき歌い、訪問者の目と耳を楽しませていた。空気と光と鳥を建物に取り込んだ、いや天空に飛翔する鳥を建築化した・・・・・・・ともいえる、実に斬新な発想である。

 だがオルティ・ファルネジアーニの魅力はこれにとどまらない。丘上の広大な遺跡ゾーンには整形花壇が一面に広がり、そこに世界中の奇草異木・奇樹異花が蒐集栽培されていた(図4)。それが可能であったのは、オドアルドがイエズス会と太いパイプを有していたからだった。世界中で宣教活動を繰り広げた同会が、異境・異国から怪鳥異木奇草をぞくぞくとローマに送り届けてくる。それらをファルネーゼの庭で飼育栽培したのだ。世界中の動植物を集めて、かつてのエデン神苑を再現しようとする意図が、その背後にはあったのかもしれない。


図4 鳥瞰図(左がフォロ・ロマーノ側)(G. B. Falda, 1683より)
出典:
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4e/Giovanni_Battista_Falda_Orti_Farnesiani_1683.jpg

 1625年、『ローマのファルネーゼ家の庭で栽培されている幾つかの希少植物の正確極まる記述』(Exactissima description rariorum quarundam plantarum, quae conitnentur Rome in Horto Farnesiano)なる書物が刊行された。なんと、同庭に無数に栽培されていた奇樹珍花のなかでも、きわめて希少な品種のみを十六種厳選し、カタログ化した冊子なのだ。冒頭に紹介されているのは、この庭ではじめて開花したとされる西インド諸島産のキンゴウカン(Acacia farnesianum)。植物学の専門家が執筆を担当し、形態描写はもちろん、薬効や調理法、精油や香水の製作法などが、写実的な美麗図版とともに紹介されている。そう、ここはどこよりも充実した植物園だったのだ。

 古代趣味が高じて遺跡の丘をまるごと買い取り、庭にしてしまったファルネーゼ家。その歴史的空間に、鳥類や植物への熱いまなざしが共存していたのは、人類の過去(History)と博物学/自然史(Natural History)を掘り下げてゆく知的営みに、どこか通じる面があったからだろう。けれどもまさに情熱を注いだその対象が、庭の破壊をもたらす原因ともなった。
 十七世紀後半以降、ファルネーゼの家運が衰退するにつれ、鳥たちは姿を消し、植物は枯れていった。生き物の飼育管理ほど維持費のかかるものはない。そして十八世紀に本格化する古代ローマの考古学研究ブームがとどめを刺した。パラティヌスの丘は貴重な皇帝宮殿の遺構として、あちこちで大規模な発掘調査が行なわれ、その際、整形花壇は躊躇なく取り壊されていったのだ。
 かつてローマの栄光に思いを馳せた庭は、わずかの痕跡を残して破壊され尽くし、今では古代遺跡とすっかり同化した姿をさらしている。けれどもオルティ・ファルネジアーニにとっては、これもまたふさわしい結末だったのかもしれない。古代遺跡から生まれた庭は、最後に自らが廃墟となることで、憧れの古代ローマと一体化できたのだから。

<主要参考文献>
・David R. Coffin, Garden and Gardening in Papale Rome, Princeton, New Jersey, Princeton University Press 1991.
・Van de Ree et al., Italian Villas and Gardens, Munich, Prestle 1992.
・Giuseppe Morganti, Gli Orti Farnesiani, Milano, Electa 1999.
・Marcello Fagiolo, Vignola: l'architettura dei principi, Roma, Gangemi 2007.

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著者略歴

  1. 桑木野幸司(くわきの・こうじ)

    1975年、静岡県生まれ。東京大学大学院工学系研究科博士課程単位修得退学。博士(文学)(ピサ大学)。第8回(平成23年度)日本学術振興会賞受賞。大阪大学教授。専門は西洋建築史・庭園史・美術史。
    主な著書に、『ルネサンス庭園の精神史――権力と知と美のメディア空間』(第41回サントリー学芸賞(芸術・文学部門)受賞、白水社)、『記憶術全史 ムネモシュネの饗宴』(講談社選書メチエ)、『叡智の建築家』(中央公論美術出版)、『ルネサンスの演出家ヴァザーリ』(共著、白水社)、『ブラマンテ 盛期ルネサンス建築の構築者』(共著、NTT出版)など。
    主な訳書に、ヴォーン・ハート+ピーター・ヒックス編『パラーディオのローマ』、ジョン・カナリー『古代ローマの肖像』、アンドルー・ペティグリー『印刷という革命』(以上、白水社)など。

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