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「ヨーロッパ綺想庭園めぐり」桑木野幸司

第7回 お皿に盛られた楽園:ベルナール・パリシーの「田園風」陶器と理想庭園

 竈の中で紅蓮の炎が渦巻いている。その猛り狂う火炎をじっと凝視する一人の男。ときおり、薪をつかんで放り込むほかは、微動だにしない。そうしていったいどれほどの時間が過ぎ去ったのだろう。熱気に火照った額から滲み出た汗は、顎に至って滴となり、ぽたぽたと床に落ちてゆく。あと少しだ、あと少しで思い通りの器を焼き上げることができる──

「熱気さかんになりけれども、薬料いまだ焼き付かずして、薪柴すでに乏しくなりたり。いかにしてか、火力を減せざらしめんと、案じ思うに、園の木牆のありければ、これを引き抜きて竈中に投ぜしが、薬料いまだ鎔銷せざりけり」

 十六世紀の中葉、フランス南西部の町サント。後に初期近代フランスを代表する陶工として名を馳せるベルナール・パリシー(1510頃-90年)(図1)が、独自の釉薬を土器に定着させるべく、自宅に設置した竈で試行錯誤を繰り返す場面である。手持ちの薪をすべて使い尽くし、ついには庭の灌木を伐採するも、たちまち燃料が足りなくなって──


図1 B. パリシーの肖像画
出典:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/db/Bernard-Palissy.jpg

 「パリッシー、なお十分の間、火力を蓄えなば、経験成るべくや、と思いければ、なにほど貴きものなりとも薪に用いなんと、ついに家にあるところの椅子を壊りこれを火中に投じたり。しかれども火候なおいまだ至らず、残れるものは庋架のみなりけるが、これまた裂きて竈底になげうちたり」

 こうして自宅の床板をべりべりと剥がし、家具調度品を惜しげもなく竈の灰としたパリシー(ちなみに彼は妻子持ちである)は、長年の努力(と家族の犠牲)が実り、ついに新たな釉薬技法を発見する(1550年頃)。続けて、爬虫類や両生類の姿を丸ごと陶器に写し取る、いわゆる「生体型取り」という難しい技術も開発し、製陶の道を究めた。怪しいぬめりを帯び、にぶい光沢を放つ妖艶な彼の陶器は、時の最高権力者カトリーヌ・ド・メディシスや取り巻きの大貴族たちをもたちまち魅了し、手厚い保護をうけるに至った。
 まさに克己・勤勉のお手本にして、極貧から身を興した立身出世の人。そんな彼の熱い(・・)生き方は、十九世紀の自己啓発本のたぐいで繰り返し取り上げられ、青雲の志を抱く若者たちの魂に火を燃やし(・・・・・)続けてきた。冒頭に引いたのは、まさにその種の驚異的ベストセラーたる、Samuel Smiles, Self-Help, with Illustrations of Character and Conduct (1859)の、中村正直による邦語訳『西国立志編』(1871年初版)からの抜粋である。同書収録のパリシー伝は、自助努力の鑑として市井で人気を博し、歌舞伎の演目にさえなった。その一方で、アナトール・フランス、ガストン・バシュラール、渡辺一夫、澁澤龍彦ら名だたる文学者たちも、この類まれなる陶工に惜しみない賞賛を送っている。

 彼の作品の一体どこに、それほどの魅力があるのだろうか。いわゆる「田園風(リュスティク)」という形容詞がつけられた、伝パリシー(工房)作とされる陶器をいくつか見てみよう(図2, 3, 4)。


図2 B. パリシー(工房)の「田園風」釉陶皿
出典:https://en.wikipedia.org/wiki/File:Bottega_di_bernard_palissy,_vassoio_rustico,_1575-1600_ca..JPG


図3 B. パリシー(工房)の「田園風」釉陶皿
出典:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/dc/Dish_attributed_to_Bernard_Palissy%2C_Paris%2C_France%2C_16th_century%2C_lead-glazed_earthenware_-_Krannert_Art_Museum%2C_UIUC_-_DSC06639.jpg


図4 B. パリシー(工房)の「田園風」釉陶皿
出典:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/63/Makk_K%C3%B6ln_Plat_Bernard_Palissy_30122014_1.jpg

 制作者には申し訳ないが、正直、この器で食事をするのはごめんこうむりたい。楕円形のお皿の中央に、圧倒的な存在感をもつ蛇がグロテスクに波うち、それを囲むようにして魚だの、エビだの、カエルだの、蛾だの、昆虫だのが、これまた生き写しの不気味さで、蟲毒の呪法さながら、いまにも互いを喰らわんと蠢いているかのようだ。それら怪しげな生物の隙間に散らばるのは、貝殻や植物の枝葉。総じて、皿全体の構成にシンメトリーや一定のリズムは感じられない。
 にもかかわらず、この皿は、王侯貴紳たちを手もなく魅了してしまった。その理由はやはり、十六世紀後半の中央ヨーロッパという、特殊な時代・文化相に求めるべきだろう。当時、古典古代の端正な美を理想とする盛期ルネサンスの世界が、しだいに輝きを失いつつあった。その大いなる黄昏の時代にあって、ひときわ精彩を放ったのが、マニエリスムと呼ばれる特異な造形美学だ。パリシーの皿の奇天烈な造形こそは、まさにこの新たな審美モードの典型といえた。
 古典主義芸術が体現する均整の世界は、一見すると、普遍的な美の体現かと思われる。けれどもそれは、構成要素のひとつひとつが、絶妙なバランスを実現した「刹那」にのみ現れ、瞬く間に崩れさってしまう、そんな儚い布置でもある。我々の日常生活において、そうした極限の美を目にすることはまずなかろう。むしろ世界は無限の多様性に満ち、混沌すれすれの豊饒が、生命を常に取り囲んでいるのではないだろうか。
 手の届かぬ永遠不変の理想ではなく、今ここにある生成変化の活力こそを、創作のお手本としよう──そうした考えのもとに、いまいちど自然をじかに観察し、その創造原理の精髄を取り込まんとしたのが、パリシーをはじめとする一部の先鋭的芸術家たちであった。同時代には、ヤムニッツァー一族が金属工芸の分野で(図5)、そしてアルチンボルドが絵画において(図6)、エキセントリックな自然の多様性をたっぷり詰め込んだ作品を世に送り出し、マニエリスム皇帝ルドルフ二世を歓喜させている。


図5 ヴェンツェル・ヤムニッツァー作「銀製の文具箱」(1560年頃)
出典:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c4/Schreibzeug_%28N%C3%BCrnberg%29.jpg


図6 ジュゼッペ・アルチンボルド≪水≫(1566年)
出典:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/77/Arcimboldowater.jpg

 マニエリストたちが昆虫や爬虫類、甲殻類などをことのほか鍾愛したのには、理由があった。なぜ不格好な芋虫が美しき蝶へと変化するのか。なぜある種の生物は古い皮を脱ぎ去って、永遠の若さを保ち続ける(ように見える)のか。小さき生命たちが見せる究極のメタモルフォーゼと若返りの神秘にこそ、造化の極意が隠されているにちがいない。その力が発動するプロセスそのもの(・・・・・・・・)を人の手で再現しえたとき、制作者は神に一歩近づくだろう。パリシーのお皿で陽気に蠢くカエルやザリガニたちは、それらが火と土と釉薬によって生成される複雑な過程も含め、まさしく生命の神秘を再演したものであったといえる。トカゲは役者、お皿は舞台、そして陶工の竈は宇宙そのものであった。

 1550年代の半ば、パリシーに転機が訪れる。王室の側近であるアンヌ・ド・モンモランシー大元帥(1493-1567年)から、エクアンの彼の居城に、グロッタ(人工洞窟)を制作するよう命じられたのだ。陶工は期待に応えるべく、13メートル×6.5メートルの平面を持つ洞窟の壁と天井にセラミックのコーティングを施し、その表面に、お得意の魚、両生類、甲殻類、貝殻、鳥のリアルな形象を融合させた。例の「田園風」の皿を拡大し、中に人が入れる規模の空間に設えたのだ。その後の記録が途絶えるため詳細は不明だが、大元帥をいたく満足させたことは確かで、彼の推挙によりパリシーは、王后カトリーヌ・ド・メディシスから「国王並びに母后御用、田園風陶工術元祖」なる称号を賜った。

 陶工として名を成した彼の後半生は、しかしながら決して順風満帆ではなかった。当時のフランスに浸透しつつあった宗教改革の激動は、多くの芸術家に信仰の選択をせまった。パリシーは自らの意志で新教を選び取る。当然待ち受けるのは激しい弾圧だ。そうした苦境のなかで陶工は、自分にいったい何ができるのだろうかと、思案を重ねたに違いない。そして思い至ったのが、新教徒たちが誰にも邪魔されず、己の信仰に忠実に生きられるための理想的空間の企図であった。そのひとつが、アクキガイをモデルとした難攻不落の要塞都市であり、もう一つが、この後詳しく見る理想庭園であった。お皿からグロッタへと、そのスケールを拡大してきた陶工にとって、今度はそのグロッタを複数内包する巨大な庭園や、一都市規模の城塞の設計を試みることは、なかば必然であったといえる。
 その理想の庭の構想が語られるのが、1563年発表の『真の処方』(Recepte véritable)という著作である。図版は付されていない。
 「詩篇」第104篇に着想を得たというその庭園は、全体が長方形で、十字に交差する園路で四分割されている。敷地の北側と西側を岩山によって遮られる一方で、南側は川まで降り下る牧草地に接し、東側は果樹・麻・ヤナギが植わる樹林に面するという。Ann-Marie Lecoqによる復元平面を掲載しておこう(図7)。


図7 パリシーの理想庭園の復元平面
出典:・A. M. Lecoq, “The Garden of Wisdom of Bernard Palissy”, in M. Mosser - G. Teyssot (eds.), The History of Garden Design: The Western Tradition from Renaissance to the Present Day, London, Thames and Hudson 1990, p.71.

 庭の四隅には、それぞれグロッタが設けられる(合計四つ)一方で、敷地中央および十字園路が四辺とぶつかる場所にも一つずつ緑のキャビネ(園亭)が置かれる(合計五つ)。記述が集中するのはもっぱらこれら九つのエレメントで、庭のそれ以外の部分は曖昧なまま残されている。
 では五つあるグロッタのうち、最初に語られる北西グロッタを見てみよう。その外観は、建築というより自然の岩穴とも見まごう作りになっている。なかでも我々の度肝を抜くのが内部空間の仕上げだ。いわく、まず煉瓦躯体の円天井からグロッタの壁、床面にいたるまで、さまざまな色彩の釉薬でコーティングする。次いでグロッタ内でがんがんと火を焚き、表面の釉薬が液化してどろどろと混じりあうことで、多彩な色が生まれ、かつ部材の継ぎ目を覆い隠して、光沢ある壁面に焼きあがる。面白いのは、こうして完成したグロッタ内に迷い込んだトカゲが、そこに飾られた爬虫類の陶製オブジェをみて自分の姿と勘違いする、というくだり。パリシーの遊び心が伺える箇所だが、そこには外界のイリュージョンに惑わされることへの鋭い警告も込められていたはずだ。以下同様に、残り四つのグロッタにも、独創的な仕掛けと造形が施されてゆく。
 次いで緑の園亭を見てみよう。こちらのは楡の樹木を円環状に植え、枝葉の覆いを屋根とする。木々の幹が円柱となり、水平に伸びる枝を編んでコーニス、ア-キトレイヴといった梁材を形成する。さらに、柔らかなひこばえを多彩な形状に屈曲させてアルファベットの形とし、それらを組んで聖書の「知恵の書」の文言を綴るのだという。痴愚を戒め、知を称える格言だ。内部空間の中央には噴水が一基据えられ、綺想に富んだ装飾が施されている。たとえば北辺中央の園亭の場合、先のグロッタ同様、釉陶によって噴水全体を覆い、その表面から生える貝殻やサンゴが作る幻惑的な森の中を、陶器製のカエル、カメ、ザリガニ、トカゲが跋扈している。これらの生物が、自然の内奥に秘められた生命原理そのものの発露であったことを思い出そう。パリシーはグロッタや園亭という巨大な「器」の中に、大地の創造パワーの根源をぶちまけてみせたのだ。
 この理想庭園の構想が単なる知的遊戯ではなかったことは、庭の北と西を保護する岩山の活用を見ればわかる。パリシーはそこに上下二段のアーケード廊と諸室を設け、その活用法を詳細に述べているのだ。第一層はオランジュリー、穀物倉庫、農具小屋、庭師住居として機能。上層は書店、書斎、酒店、乾燥果物店、薬品蒸留所などが、岩壁を穿って作った部屋べやを占めている。もちろんこれらの施設のみでは自給自足の生活は無理だろう。おそらくは新教徒たちが共同生活を送るコミュニティが近隣に想定され、そこに暮らす人々の心身を癒す役割が、この庭園には込められていたに違いない。かつて庭の木を焼いた男は、平和の楽園として庭を美しく再生させたのだ。

 パリシーは1570-80年代にかけて、長年の研究と実践にもとづくその博識を高く評価され、王都パリで自然学や博物学についての公開講座を開いた。十年あまり続いたその講演は評判となり、多くの聴衆がつめかけたという。彼の中では、陶工であることと自然の神秘の探求とは、まるで陶器と釉薬のごとく不可分に「溶け合って」いたに違いない。そして、実験と観察に基づく正しき知識を広めることこそが、人類を愚かしい「共食い」の闘争から救う唯一の道だと固く信じていたのだろう。
 最晩年たる1588年、陶工はその信仰のゆえにバスティーユ監獄に収監され、1590年に獄死した。改宗や妥協をうながす誘いはいくどもあったはずだが、かたくなに己の信条を貫き、自然研究と信仰に生きた激越な生涯を、狭く薄暗い洞窟のごとき監房の中で閉じたのだった。
 われわれの手元に残された数枚の「田園風」陶器と、理想庭園や要塞の構想を綴ったテクスト──それらは、人類の狂気・痴愚と最後まで闘った賢者の遺品として、現在、なによりも強い光を放っているように思われる。

〈主要参考文献〉
・Anne-Marie Lecoq, “The Garden of Wisdom of Bernard Palissy”, in M. Mosser - G, Teyssot (eds.), The History of Garden Design: The Western Tradition from Renaissance to the Present Day, London, Thames and Hudson 1990, pp. 69-80.
・Léonard N. Amico, À La Recherche du Paradis Terrestre: Bernard Palissy et ses Continuateurs, Paris, Flammarion 1996.
・Philippe Morel, Les Grottes maniéristes en Italie au XVIe siècle. Théâtre et alchimie de la nature, Paris, Macula 1998.

・サミュエル・スマイルズ著、中村正直訳『西国立志編』、講談社学術文庫、1981年
・ピエール・ガスカール著、佐藤和生訳『ベルナール師匠の秘密:ベルナール・パリシーとその時代』、法政大学出版会、1986年
・B・パリシー著、佐藤和生訳『陶工パリシーのルネサンス博物問答』、晶文社、1993年
・原研二『グロテスクの部屋:人工洞窟と書斎のアナロギア』、作品社、1996年
・大澤絢子『「修養」の日本近代:自分磨きの150年をたどる』、NHKブックス、2022年

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著者略歴

  1. 桑木野幸司(くわきの・こうじ)

    1975年、静岡県生まれ。東京大学大学院工学系研究科博士課程単位修得退学。博士(文学)(ピサ大学)。第8回(平成23年度)日本学術振興会賞受賞。大阪大学教授。専門は西洋建築史・庭園史・美術史。
    主な著書に、『ルネサンス庭園の精神史――権力と知と美のメディア空間』(第41回サントリー学芸賞(芸術・文学部門)受賞、白水社)、『記憶術全史 ムネモシュネの饗宴』(講談社選書メチエ)、『叡智の建築家』(中央公論美術出版)、『ルネサンスの演出家ヴァザーリ』(共著、白水社)、『ブラマンテ 盛期ルネサンス建築の構築者』(共著、NTT出版)など。
    主な訳書に、ヴォーン・ハート+ピーター・ヒックス編『パラーディオのローマ』、ジョン・カナリー『古代ローマの肖像』、アンドルー・ペティグリー『印刷という革命』(以上、白水社)など。

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