白水社のwebマガジン

MENU

「ヨーロッパ綺想庭園めぐり」桑木野幸司

第9回 星を継ぐ建築家:ダニエーレ・バルバロの宇宙誌的ヴィッラ庭園

「建築家は時に、その心と目で、天球へと向かう」。1556年出版の『ウィトルーウィウス建築書注解』の中で、著者ダニエーレ・バルバロ(1514-70年)が綴った言葉だ(Daniele Barbaro, I Dieci Libri dell’Architettura di M. Vitruvio, tradutti et commentati da Mons. Daniele Barbaro eletto d’Aquileggia, p. 27)。建築と天という、一見結びつきそうもない両者のつながりを解くかぎは、古代世界における建築の捉えかたにあった。
 共和政ローマ末期・帝政初期に活躍した建築家ウィトルーウィウス(紀元前70/80頃-紀元前15年以降)が著した建築理論書は、古代世界から伝わる唯一の権威として、十五世紀以降に再び注目を集め、西欧の芸術文化に大きな影響を及ぼした。けれども写本に乱れがあったり、ラテン語の原文自体が難解であったりしたため、ルネサンス期の人文主義者や建築家たちが、さまざまな注釈や翻訳を上梓した。その際、写本に欠けていた挿絵が付されることも多かった。
 冒頭に引いたバルバロ版は、その注釈の精度や原文解釈の適切さ、そしてなによりも美麗な図版の充実度で、ウィトルーウィウス出版史のなかでも特筆すべきエディションとの評価が高い。
 先の引用は、第一書の冒頭で、建築術が「建設」、「日時計製作」、「器械造作」の三部門から成る、という本文記述への注釈である。文章はこう続く。「(そして)太陽、月、星辰を眺めやり、理解するのだ。星の放つ光や、諸天球の動きから、人間に有益な多くのものが降り来たることを」。だからこそ──と注釈者は力説する──建築家は日時計製作をないがしろにしてはならないのだ、と。
 おそらくウィトルーウィウスを手に取った多くの読者が抱くであろう疑問、すなわち、建築と日時計は何の関係があるのか、という問いへの、シンプルかつ的を射た解説だ。人の暮らしに大きな影響力を持つ(と信じられた)天球や天体の動きは、建築家が設計の際に熟慮すべき要素であったのだ。少なくとも、古代からルネサンスまでの建築には、このコンセプトが当てはまる。
 だが、星辰・天球・天からの光・星宿といった天文系の語句は、ここ以外にも、バルバロの注釈書の全体にわたって頻出する。しかもウィトルーウィウスの本文を大きく逸脱するかたちで、天文事象の解説が滔々と続くケースも多い。
 ダニエーレ・バルバロ(図1)はヴェネツィアの名門貴族の出身で、パドヴァ大学で自然哲学、天文学、音楽学、修辞学等を修めた、才能豊かな人文主義者であった。政府高官としての公務のかたわら、建築の研究にも取り組み、建物や庭の設計もいくつか手掛けている。その彼が生涯にわたって打ち込んだのが、(建築術の一部門としての)日時計の製作と、それを支える天文学の理論研究および天体観測であった。天を見上げるバルバロの瞳には、何が映っていたのだろうか。


図1:ダニエーレ・バルバロ(ヴェロネーゼ画、1556-57制作)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/ca/Daniele_Barbaro.jpg

 建物の外に広がる庭園もまた、星辰の影響を受ける世界であった。その興味深い事例が、1545年にヴェネツィア政府によって開設されたパドヴァ大学付属植物園である。ピサ植物園と並び、西欧における最初の近代的植物園とされる。薬草や蔬菜・果樹を専門に栽培する庭は、もちろん古代や中世にも存在した。けれども、一般公開を原則とし、研究と教育に主眼を置いた公的な学術庭園としては、この時期にイタリアで生まれたものをもって嚆矢とする。
 そのパドヴァ植物園の建設プロジェクトの監督役に任命されたのが、若き日のバルバロであった。時に30歳。大学での長きにわたる学究生活を終え、はじめての公務が、母校に関連する事業であったわけだ。残念なことに、建設当初の姿を描いた図面類は見つかっていない。現存図面のうち、最古のものでも十六世紀末までしか遡れない。その代表的な一枚が、1591年刊行の小冊子に付された、美麗な平面図だ(図2)。円と正方形を組み合わせた敷地の内部に、まるで雪の結晶のような放射幾何学状の精緻な分類花壇が敷かれている。


図2:1591年のパドヴァ植物園の平面図
G. Porro, L’Horto de i Semplici di Padova, Venezia, 1591.

 庭園には、星の光芒を直接表す形はもちろんのこと、正方形、円、そして「8という数」をモチーフとする形状が、ことさら多用されていることが見て取れる。西欧の古来の思想伝統によれば、正方形は大地、円は天球、そして両者がまじわってできる八角形は天地の咬合を表した。また、プトレマイオスの宇宙観(天動説)によれば、地球を中心に同心円状の回転運動を繰り返す諸天球のなかでも、大地から数えて八番目の円環が恒星天、すなわち星座がきらめく領域とみなされていたことも、忘れてはならない。そう、パドヴァ植物園の花壇デザインは、明らかに天界を志向しているのだ。
 植物学が天文と結びつくのは、先ほど触れた建築と同じ考え方から来ている。要するに、星辰からの影響力が、植物の成長や、薬効物質の生成に大きな影響を持つとされたのだ。当時は天文学と占星術の区分はかなりあいまいで、十六世紀のパドヴァ大学でも、天から地上への影響が、自然哲学理論の基本として、真摯に研究されていた。その学説は、当然バルバロも深く学んだはずだ。
 とはいえ、史料の制約から、1545年の開園当時のパドヴァ植物園の形状を正確に知ることはできないし、バルバロがどこまで具体的に設計に携わったのかも見極めが難しい。研究者の多くは、十六世紀の後半に大きくレイアウトが変わったと考えており、先ほどの美しい星型花壇に、バルバロの思想を過度に読み取ることは危険だ。

 

 パドヴァ植物園が無事に開園した年、バルバロはローマに赴き、そこで後のルネサンス建築の大家となるアンドレア・パッラーディオと知己の仲になっている。たちまち意気投合した二人は、ローマ周辺の古代遺跡の実測調査を精力的に行なう。その一方で、バルバロは建築の理論研究をさらに深め、1556年には先述したウィトルーウィウス注解を上梓。ほぼ同じころ、それらの専門知識を総動員するかたちで、バルバロ家の所領拠点となる典雅な別荘を、北イタリアのマゼールの地に建設した。いわゆるヴィッラ・バルバロと呼ばれる、ヴィッラ・庭園コンプレックスの傑作である(図3)。


図3:ヴィッラ・バルバロ
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/59/Villa_Barbaro_panoramica_fronte_Marcok.jpg

 基本設計はダニエーレ・バルバロと弟のマルカントニオが手掛け、実施設計はパッラーディオ、内装はヴェロネーゼという、超豪華メンバーが腕を振るった。建築躯体の完成は1558年、内部装飾は1562年までかかっている。
 このヴィッラをめぐっては、2023年、気鋭のルネサンス庭園史・美術史家ドニ・リブイオー(Denis Rebouillault)氏が、従来の図像解釈を一新する大変優れた著作を刊行している。ここでは同著の内容および、筆者がリブイオー氏本人から直接うかがった知見をもとに、この建築・庭園作品における宇宙誌的コンセプトに光を当ててみることにしよう。
 まずヴィッラ建築の外観から。パッラーディオの一連のヴィッラ作品同様、強い正面性をもった対称形のファサードが、左右に長く伸びる。神殿風の中央ブロックが突出して玄関ホールを形成する一方、左右の両端には、個性的な屋根形状の鳩小屋が設けられ、横長のファサードに三つの焦点を形作っている(左・正面・右)。
 さて、左右の鳩小屋に注目してみよう。二階部分に大きな円形プレートが見えるが、実はこれ、日時計なのだ。正面向かって左のものが時刻表示用、右が季節表示機能を持つ獣帯カレンダー(図4)。ヴィッラの顕著な特徴であるにもかかわらず、現在見られる日時計が設置されたのは1936-38年のことだという。それ以前の状況が詳しく記録されていないため、ヴィッラの創建期にさかのぼる図匠かどうかは、確定できない。


図4:日時計
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/21/Villa_Barbaro_Maser_sculture_2009-07-18_f02.jpg

 だが、このヴィッラに当初から日時計があったとしても、まったく違和感がないどころか、むしろ全体のコンセプトに調和したはずだ。バルバロは当代でも有数の日時計理論・実践知のエキスパートとして名が知られていたからだ。実際、先に引用したバルバロの『ウィトルーウィウス注解』第九巻は、独立した日時計論としても読めるし、これ以外にも二冊、同主題の手稿が現存している。
 ではなぜ日時計にここまでこだわるのか。それは、単に時刻を知るための装置というよりも、天体運行のリズムを視覚的に表示する一種の「宇宙モデル」と見なされていたからだ。そして、その日時計装置を躯体に取り込んだ(であろう)ヴィッラ・バルバロ自体が、大宇宙(コスモス)を構成する数比・音楽的構成を反映する、コズミック・アーキテクチャーであった可能性が高い。
 そのコンセプトが最もよく現れているのが、母屋棟の中央に位置する「オリュンポスの間」の装飾である(図5)。ホールの天井には、ヴェロネーゼの筆になる見事なトロンプルイユによって、オリュンポスの神々が天空に向かって円形に居並んでいる姿が描かれている。そして天の中央に舞う、謎めいた白衣の女性──これまで彼女の正体をめぐっては諸説紛々であったが、このたびリブイオー氏が、目の覚めるような新説を提示し、積年の難問を一気に片づけてくれた。


図5:「オリュンポスの間」
Denis Ribouillault, The Villa Barbaro at Maser. Science, Philosophy, and Family in Venetian Renaissance Art, London – Turnhout, Harvey Miller Publishers 2023, pp. 60-61, fig. 44.

 白衣の女性は、ギリシア神話の女神レト(ローマ神話ではラトナ)、すなわち太陽神アポロンと月の女神アルテミスの母に他ならない。昼と夜を司り、地球と星々の乳母たる役目を帯びる存在だという。彼女を中心とする神々(=それぞれ惑星を司る)を取り囲む建築フレームが、八角形であるのも示唆的だ。そして目を凝らすと、その惑星神たちの足元に、十二の獣帯記号が描かれているのに気が付く。中央に座すレトが延ばす左右の腕は、まるで時計の短針と長針のように、時と季節を告げる。すなわちこのホールは、天と地の咬合を意味する宇宙軸の機能も帯びているのだ。
 ヴィッラの背後には小規模な庭園が設置されている。構成の中心となるのが、建物の軸上に位置するニンフェウムだ(図6)。多彩な神々の彫刻で飾られた饒舌なモニュメントであるが、ここでは中央のグロッタ(人工洞窟)にのみ着目しよう。薄暗い部屋の中には、壺を抱えて横たわる長髭の老人と、その傍らで白鳥を抱きしめて佇む赤子の彫像(図7)。一見謎めいているものの、ヴィッラを司るレト女神の伝説を思い出すなら、赤子は彼女の息子であるアポロンだとわかる。なぜならアポロンの誕生時に、白鳥が舞い歌ったと伝えられるからだ。


図6:ニンフェウム
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8b/VillaBarbaro_2007_07_08_09.jpg


図7:グロッタ内部
Denis Ribouillault, The Villa Barbaro at Maser. Science, Philosophy, and Family in Venetian Renaissance Art, London – Turnhout, Harvey Miller Publishers 2023, p. 174, fig. 177.

 神話によれば、レトはゼウスの子を身ごもったのち、嫉妬に駆られたヘラ女神(ゼウスの妻)の迫害を逃れ、エーゲ海のキクラデス諸島のひとつ、デロス島に隠れ住み、そこで出産した。その場所は、同島の名峰キュントス山のふもと、円形の湖に川が注ぎ込む地であったという。西欧の伝統的図像学によれば、横臥老人像は河川神を表す。またこのグロッタの前に広がる池は、改修前は円形であったことがわかっている。ということは、このグロッタの構成全体が、レトの出産地を表すものだと理解できる。ヴィッラの背後から太陽が昇る(=誕生する)という、大変シンボリックな構想だ。

 

 バルバロは1562-63年にかけて、カトリック教会の威信をかけたトリエント公会議に参加した。そこで天文学の知識を買われ、教会によるカレンダー改革の主任に任じられている。当時、実際の季節の廻りと暦とのずれが、無視できないほど広がっており、特に移動宗教祭日の決定に大きな支障が出ていたという。これを修正するには、太陽軌道の正確な観測データが必要であり、日時計マニア、いや、当代随一の天文理論家バルバロに白羽の矢が当たったわけだ。
 この世の悠久の流転、春秋の流相、星宿歳時の論、いずれも太陽あってのことだ。その生命の源の誕生を言祝ぎ、日輪の運行を正確に計測する装置を堂々と構え、その家族たる母(天地の咬合)と妹(月)を讃える中央ホールを抱えたヴィッラ・バルバロこそは、ルネサンスでも最高度の完成度を誇る宇宙誌的建築であったといえるだろう。
 我々はルネサンス期の建築と庭を鑑賞する際に、もうすこし、天に目を向ける必要がありそうだ。

 

〈主要参考文献〉

・Denis Ribouillault, The Villa Barbaro at Maser. Science, Philosophy, and Family in Venetian Renaissance Art, London – Turnhout, Harvey Miller Publishers 2023

・Koji KUWAKINO, “La varietas in una sylva geometrica che «ricrea la mente stanca dal pensiero delle cose difficili»: Daniele Barbaro e l’Orto Botanico di Padova”, in Daniele Barbaro 1514-1570. Vénetien, patricien, humaniste, Brepols, 2017, pp. 115-134.

・Alessandro Minelli (ed.), L’Orto botanico di Padova 1545-1995, Venezia, Marsilio 1995.

タグ

バックナンバー

著者略歴

  1. 桑木野幸司(くわきの・こうじ)

    1975年、静岡県生まれ。東京大学大学院工学系研究科博士課程単位修得退学。博士(文学)(ピサ大学)。第8回(平成23年度)日本学術振興会賞受賞。大阪大学教授。専門は西洋建築史・庭園史・美術史。
    主な著書に、『ルネサンス庭園の精神史――権力と知と美のメディア空間』(第41回サントリー学芸賞(芸術・文学部門)受賞、白水社)、『記憶術全史 ムネモシュネの饗宴』(講談社選書メチエ)、『叡智の建築家』(中央公論美術出版)、『ルネサンスの演出家ヴァザーリ』(共著、白水社)、『ブラマンテ 盛期ルネサンス建築の構築者』(共著、NTT出版)など。
    主な訳書に、ヴォーン・ハート+ピーター・ヒックス編『パラーディオのローマ』、ジョン・カナリー『古代ローマの肖像』、アンドルー・ペティグリー『印刷という革命』(以上、白水社)など。

フランス関連情報

雑誌「ふらんす」最新号

ふらんす 2024年9月号

ふらんす 2024年9月号

詳しくはこちら 定期購読のご案内

ランキング

閉じる