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「ヨーロッパ綺想庭園めぐり」桑木野幸司

第4回 ローマのヴィッラ・メディチ:ある偉大なコレクションの記憶

 久恋きゅうれんの古都ローマ──その美しさ、崇高さをたたえるべく、古来さまざまな愛称がうまれ、形容されてきた。永遠の都チッタ・エテルナ世界の首都カプト・ムンディ、百万都市、聖なる都……。それらの数ある添え名の中でも、町を実際に歩いた人にとって一番しっくりくるのが、「丘の町」という表現ではないだろうか。有名な七つの丘をはじめ市内のいたるところで多様な土地の起伏が展開し、創意に富んだ石段や斜路が設けられている。なかでも華麗な滝を彷彿とさせるスペイン階段は、『ローマの休日』でもおなじみの人気スポットだ。誰もがアイスクリームを片手に俳優気分になれる舞台装置──で、かつてはあったのだが、今では滞在は禁止され、飲食もだめ、座れば罰金までとられる始末。ここは思い切って、このいささか興ざめな名階段を一気に駆けあがろう。その先の美しき丘陵こそは、ローマ帝政期に「庭園の丘」(Collis Hortulorum)なる美称で愛されたピンチョの丘である。
 古代の美苑奇園の記憶に思いを馳せたいのなら、そのまま道なりに左手に進もう。ほどなく正面に、小さな二つの塔屋を、まるでウサギの耳のように突き出した白い建物が見えてくる。すなわちヴィッラ・メディチ、知る人ぞ知る在ローマ・フランス・アカデミーだ。
 かつて「ローマ賞」と呼ばれる、フランス国家給費の奨学金制度があった。創設はルイ十四世治下の1663年。王立アカデミー(のち芸術アカデミー)による審査で選ばれた建築、絵画、彫刻、音楽の分野の若き俊英たちが、ぜいたくな資金で古都ローマに長期留学できる仕組みで、芸術界デビューの登竜門としても機能していた。そのエリート奨学生たちの滞在拠点となったのが在ローマ・フランス・アカデミーである。1803年から施設をヴィッラ・メディチに移転し、現在に至っている(ただし「ローマ賞」自体は1968年に廃止)。
 見学ツアーに申し込むと、館内を一巡したあと、建物の外に広がる庭園を自由に見学させてくれる。以前に筆者がこのヴィッラを訪れた際も、お目当てはもっぱら庭のほうで、小雨が降りそぼる中、巨大な一眼レフカメラをあちこちに向け、猛烈な勢いでシャッターを切り続けていた。とその時──ちょっと、そこの貴方!と、背後から凛とした一喝が。振り返ると、管理スタッフの制服に身を包んだ、厳しい顔つきの男性がこちらをねめつけている。しまった……これ、ぜったいに怒られるパターンだ、と内心おびえつつ神妙にしていると、男性はおもむろにポケットから鍵束を取り出し、なんと、庭の非公開区画に続く扉を開けてくれたではないか! いわく、あまりに熱心に写真を撮っているから、きっと美術の研究を志す方でしょう、どうぞこちらも見て行ってください、と。その時、少し涙目になりつつ筆者の頭に浮かんだのが、「庭の掟」(Lex hortorum)という言葉であった。そう、実はこの庭は、ルネサンス期ローマの庭園文化における、ある美しい慣習・・・・・・・を語る上で欠かせない場所であったことを、その時ふと思い出したのだ。

 ヴィッラの建物を庭園側から眺めると、ぎょっとする(図1)。一見、左右に塔屋を並べた古典風建築に見えるのだが、ファサードの壁面処理が異様なのだ。平滑な面がほとんど残らぬぐらい、いたるところに壁龕(ニッチ)がうがたれ、あるいは浮彫装飾が所せましと貼りつけられている。しかも壁龕を飾るはずの彫刻は無く、まるで略奪にあったかのような違和感を覚えるのだ。また左右対称を崩すように、ファサード端から長い腕を思わせるギャラリー棟が、庭の方向に一本つきでている。実はこれらはいずれも、かつてこのヴィッラに溢れんばかりに集められていた古代遺物を、効果的にディスプレイするための処置であった。だが、ヴィッラ・メディチの「失われた」コレクションを語るには、記憶の彼方にあるもう一つの庭を想起しなくてはならない。


図1 ローマのヴィッラ・メディチ、庭園側のファサード
(筆者撮影)

 その庭の持ち主はアンドレア・デッラ・ヴァッレ枢機卿(1463-1534年)。ローマの古い家系の出身で、教会内で数々の要職を歴任した人物であるが、一般にはローマの盛期ルネサンスを代表するアート・コレクターとして名が知られている。一族自慢の古代遺物・彫刻の大コレクションを収蔵すべく、1520年代中葉から都心部に自邸の建設を開始。中庭の東西の壁を一種の懸垂庭園(hortus pensilis)の構えとし、国宝級の彫像や碑文が惜しみなく、けれども「整然と」ディスプレイされた(図2)。それ以前には、この種の空間はもっぱら乱雑なオブジェの集積が一般的であったから、これはひとつの革新であった。実際、屋外の彫刻展示専用空間としては、年代的にやや先行するヴァティカンの「ベルヴェデーレの彫刻の中庭」と並んで、その後の庭園デザインに大きく影響を与えることとなった。


図2 デッラ・ヴァッレ枢機卿の中庭
(出典)https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/ab/Hieronymus_Cock_-_Ancient_Sculpture_Displayed_in_s_Courtyard_-_WGA5099.jpg

 このデッラ・ヴァッレ家の中庭で忘れてはならないのが、「庭の掟」なる慣習である。すなわち、東西両面にたつ懸垂園の最上部にラテン語の銘文が刻まれ、次のような宣言がなされていたのだ。いわく、公益のためには、これら私有財産の権利をよろこんで制限し、親族や友人はもとより、一般市民や芸術家、そして外国人にさえも、広くこの庭を開放する用意がある、という。そう、これらの貴重なコレクションは、上流市民たちに公開されていたのである。
 この種の文言、あるいはそこに謳われる公開の慣習をさして「庭の掟」(Lex hortorum)という。古くは古代ローマ時代、貴顕や皇帝たちの豪華な庭園がローマ市民たちに開放されていた先例があり、その美風が十六世紀に復興されたものだ。とりわけ古代彫刻が数多く出土し、それらを蒐集展示する庭園が多かった都市ローマで、この慣習は広く実践された。このデッラ・ヴァッレ邸の中庭は、その最初期の本格的事例でもあるのだ。一種の「ノブレス・オブリージュ」の実践ともいえるのだが、その裏には、コレクター特有の自慢癖が見え隠れするし、さらには、贅沢に対する世間の批判をかわすパフォーマンスの側面も当然あったことだろう。
 さてデッラ・ヴァッレ枢機卿の膨大なコレクションは、持ち主の死後、親族のあいだを転々としたのち、1583年にフェルディナンド・メディチ枢機卿(1549-1609年)によって、法外な価格で丸ごと買い取られた。こちらもまた名うての古代マニアにして、芸術や博物学にも目がないという、好奇心の塊のような人物だ。そのメディチ枢機卿はこれより以前の1576年に、ピンチョの丘上の旧リッチ家のヴィッラを獲得して増改築させ、自慢の古代彫刻を展示しはじめていた。そこへ来ての旧デッラ・ヴァッレ・コレクションの購入だ。持てる財力のすべてを注いで、美と知の殿堂が造られていった。

 現在見られるヴィッラ・メディチの庭園は幸いにも、1580年代初頭の完成時から大きな変化を蒙っていない(図3)。北西から南東方向に細長く伸びた敷地は、大きく三つ(北西・中央・南東)に分割されている。北西部分は、生垣で囲われた16個の長方形が並び、果樹が豊富に植えられていた。こうした生垣による分割は、広大なスペースに秩序をもたらし、軸線を生み出す一方で、庭を散策する者に対しては視線を遮り、動線をコントロールする役目も帯びていた。


図3 ヴィッラ・メディチ全体図
(出典)Giovanni Battista Falda, "Pianta del giardino del serenissimo granduca di Toscana alla Trinità dei Monti sul monte Pincio" , 1683.

 他方で、ヴィッラ建築の正面に展開する中央ゾーンは公的な性格を帯びる。建物の前面には儀礼用の広場が設けられ、その彼方には六枚の装飾花壇(パルテール)が置かれている。かつては、古代ローマ由来のエジプトのオベリスクが、建物の真正面に聳立していた。
 さて、造園様式上たいへん興味深いのが、敷地の南東に広がる長方形区画だ。この部分はテラスになっていて、ヴィッラ建築から延びるギャラリー棟内に設けられた階段を使わないとアプローチできない。実は筆者がスタッフさんに特別に開けてもらったのは、この階段に通じる扉であった。当然ながら、普段は観光客の立ち入りが禁じられている。
 ここは林苑として整備され、中央には巨大な築山が設置された。これはギリシア神話のパルナッソス山の見立である。すなわち、諸学芸を司るムーサ女神たちの住まいし霊山だ。フェルディナンド枢機卿の芸術・学芸庇護をシンボリックに表したものであろう。高さは約15メートル。頂上に至るには、60段の直線階段(図4)をまっすぐのぼるか、あるいは山の周囲を旋回するらせん状斜路を行く。山頂から眺めるローマ市街は、まさに絶景(図5)の一言。もともと標高の高いピンチョの丘から、さらにビル五階分相当の高さを積み増しているのだから、十六世紀当時のローマでも随一の勝望美景であったことだろう。また頂上には、都心部に給水する古代水道の唯一の生き残りであるウィルゴ水道を用いた、瀟洒な噴水が設置されていた。水源地から実に50メートルも高い地点から水を吹き上げる技術は、当時、エンジニアリングの粋として驚嘆されたという。


図4 パルナッソス山の階段
(筆者撮影)


図5 パルナッソス山頂上からの眺め
(筆者撮影)

 十六世紀当時、ここでも「庭の掟」が実践されていた。主人や賓客が利用するメインゲートとは別に、一般市民用の門が、庭の長軸の南端に設けられていたのだ。現在のポルタ・ピンチャーナ通り(Via Porta Pinciana)に開くその門扉には、庭の主人に迷惑をかけなければ入ってもよい、との碑文が今なお誇らしげに飾られている。
 では、この庭を訪れた者たちは何を見たのだろうか。もちろん枢機卿自慢の古代コレクションが最大の眼目であったことは間違いない。けれどもそれ以外にも、この庭の名声を高めていたものがあった。名果異樹・珍禽奇獣の生きたコレクションだ。庭の北西ゾーンを囲う周壁には動物の檻や鳥舎が設けられていて、ライオン、クマ、ヒョウ、トラ、クジャク、ダチョウなどが飼われていた。その記憶を今に伝えてくれるのが、同じく壁沿いに設置された「書斎」(ストゥディオーロ)と呼ばれる園亭だ。庭園のパーゴラに見立てたドーム型の天井には、多数のアメリカ産種を含む多彩な鳥類の姿が、同じく多種多様な植物と混じって写実的に描かれている(図6)。たとえばアオサギ、ヤマウズラ、フクロウ、シチメンチョウ、ゴクラクチョウ、ワシ、キジ、インコなどなど。それらにまじって、哺乳類の姿まで見える。これらの動物画の多くは、同時代の博物学者コンラート・ゲスナーの博物学著作を参照し、その挿絵を引き写したものである。ただしそのうちかなりの種は、実際に庭の鳥舎でも見られたことだろう。


図6 「書斎」(ストゥディオーロ)の天井フレスコ画
(筆者撮影)

 十六世紀末にこの庭を訪れた散策者は、茂樹鬱蒼とする林苑を抜け、築山からは永遠の都の絶景を愛で、珍果異草の色香に酔いつつ、園内各所にディスプレイされた古代彫刻に賛嘆する。かと思えば、異国の怪禽妖獣の姿に驚き、喜びもしたことだろう。ふと庭の彼方に目を向ければ、遠くサン・ピエトロ大聖堂の白亜のドームが望まれる──この庭には、人類の歴史、文明、神話、宗教、そして自然の造化のことごとくが、調和のもとに糾合されていたのだ。

 1587年、フェルディナンド枢機卿は聖都から花の都への、あわただしい引っ越しを敢行した。兄のトスカーナ大公フランチェスコ一世・デ・メディチが急死したため、やむなく還俗し、大公位を継ぐことになったのだ。だが古代彫刻への愛はやみがたく、コレクションのあらかたをフィレンツェに持ち運んでしまった。現在のヴィッラ・メディチがうら淋しい姿をさらしているのは、この時の持ち主自身による略奪・・・・・・・・・・が原因だ。庭を飾っていた珍しい動植物たちも、ほどなく姿を消した。
 だがその豊かなコレクションを失ってもなお、このヴィッラの魅力は褪せない。とりわけ双塔を備えた魅惑的な主館の形状は各地でコピーされた。そう、あのスペイン階段を見下ろして堂々と建つトリニタ・デイ・モンティ教会の、印象的な双子の鐘楼も、実はヴィッラ・メディチの模倣なのだ。
 永遠の都を訪れるみなさん──悪いことはいいません。アイス食べて怒られて、座って罰金払うより、「庭園の丘」に駆け上がり、「庭の掟」の美風が今なお薫る閑雅な庭を、優雅に散策してみませんか?

※注記:筆者が訪問した際にパルナッソス山の区画を見学できたのは当時のスタッフ氏のご厚意によるものであり、現在必ずしも常に見学できるわけではありません。

<主要参考文献>
・D. R. Coffin, Gardens and Gardening in Papal Rome, Princeton University Press 1991.
・Philippe Morel, "Un teatro di natura", In: La Villa Médicis, vol 3: le parnasse astrologique: les décors peints pour le cardinal Ferdinand de Médicis, études iconologique, edited by P. Morel, Académie de France à Rome 1991, pp. 45-88.

 

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著者略歴

  1. 桑木野幸司(くわきの・こうじ)

    1975年、静岡県生まれ。東京大学大学院工学系研究科博士課程単位修得退学。博士(文学)(ピサ大学)。第8回(平成23年度)日本学術振興会賞受賞。大阪大学教授。専門は西洋建築史・庭園史・美術史。
    主な著書に、『ルネサンス庭園の精神史――権力と知と美のメディア空間』(第41回サントリー学芸賞(芸術・文学部門)受賞、白水社)、『記憶術全史 ムネモシュネの饗宴』(講談社選書メチエ)、『叡智の建築家』(中央公論美術出版)、『ルネサンスの演出家ヴァザーリ』(共著、白水社)、『ブラマンテ 盛期ルネサンス建築の構築者』(共著、NTT出版)など。
    主な訳書に、ヴォーン・ハート+ピーター・ヒックス編『パラーディオのローマ』、ジョン・カナリー『古代ローマの肖像』、アンドルー・ペティグリー『印刷という革命』(以上、白水社)など。

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