第6回 ヴィッラ庭園という文学空間:人文主義者ピエトロ・ベンボの言の葉の苑
古代ギリシア・ローマの往昔より、手紙はまぎれもなく文学であった。文を送る相手を心に浮かべ、書簡をしたためることが、時には繊細な詩情の吐露となり、大胆な思想の表明ともなる。プラトンやエピクロス、セネカや小プリニウス、アベラールとエロイーズ、そしてペトラルカ以降の文学者たち──彼ら・彼女たちはみな、私信や恋文や公簡に綴る言の葉の一葉一葉に、己の全存在をこめてきたのだ。
(ローマの喧騒を逃れ…)「私はパドヴァにつくと(…)この我が小さなヴィッラにやって来ました。するとヴィッラは主人をとても嬉しそうに迎え入れてくれたのです。ここでの暮らしはいたって静寂です。というのも、ローマでは明けても暮れても多大な労苦に責めさいなまれる日々でしたから。それが一転ここにいると、不愉快でうっとうしい知らせを聞かなくて済みますし、口論に巻き込まれることもなければ、やれ財務官との面談だ、やれロタ法廷の聖院審決官たちの訪問だとあくせく立ち回る必要もありません。一切の騒音もなく、耳にするものといえばただ、あたりで歌い競っているナイチンゲールの美声や、百(もも)千鳥(ちどり)たちのさえずりのみ。まるで皆、その調和に満ちた歌声で、私を楽しませようと懸命な様子。好きなだけ読み、書く。馬を駆り、歩く。倦むことなく散策に出かけては、菜園の先に設けた林苑の中へと入ってゆく(…)」
上に引いたのは、盛期ルネサンスを代表する文人ピエトロ・ベンボ(1470―1547年)(図1)の筆になる私信の一節である。日付は1525年5月。ローマ教皇庁で長年勤めあげた秘書官の職を辞し、自邸と別荘のあるパドヴァへと帰郷した翌月のことであった。
図1 ティツィアーノ≪ピエトロ・ベンボの肖像画》(1539-40年頃)
出典:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/5e/Titian_%E2%80%93_Cardinal_Pietro_Bembo_%E2%80%93_Google_Art_Project.jpg
1525年といえば、聖都を一瞬にして阿鼻叫喚の地獄に叩き落した、いわゆる「ローマの劫略」の二年前だ。当時の永遠の都は、まさに熟れて地に落ちる寸前の、かつてない文化的爛熟の極みに達していた。聖職者の公邸・私邸には異教の神々の像が居並び、貴紳の宮殿や別荘にはエロティックな裸体画や彫像が溢れ、古代の放埓不敬な詩文がこぞって読まれる。この時ヴァティカンの教皇庁に君臨していたのは、メディチ家出身のローマ教皇クレメンス七世(在1523-34年)。優柔不断な気質であったと評される。対外的には緊迫する国際情勢のなかで危うい舵取りを強いられつつ、内政においてはその享楽的性格から快美をとことん追求した。こうした状況下で書かれた先のベンボの書簡からは、当時のローマで精勤していた官僚のストレスが如実にうかがえる。
ヴェネツィア共和国の名門貴族の出身で多数の著作があるピエトロ・ベンボ。彼の名を文学史上不朽のものとしているのが『俗語論』だ。まさに先の書簡が綴られた1525年、ローマから拠点のパドヴァに戻り(4月)、長年斧鉞を加え続けていた原稿をまとめて同年9月に出版している。ダンテ、ペトラルカ、ボッカッチョらの古典的トスカーナ方言こそ、未来の俗語文学のモデルとすべきだ。そう力強く主張した本書は、イタリア文学史の分水嶺となった。その人文主義者ベンボが、己の文筆活動をささえる理想の環境として愛してやまなかったのが、邸館とヴィッラであった。
パドヴァの都心部に位置する邸館のほうは、ピエトロ自身が1527年に購入し、これを大規模に改修したうえで庭園も整備している。他方でベンボ家はピエトロの祖父の代よりパドヴァの近郊ノニアーノの地に「ヴィッラ・ボッツァ」と呼ばれる別荘を所有していた。ルネサンス最高峰の人文主義者が柱の一本、灌木の一枝にまで徹底的にこだわりぬいた住環境を、順にみてゆこう。
ベンボの旧邸は現在「イタリア第三軍博物館」(Museo Storico di Terza Armata)と名を変えて公開されている。往時の図面資料からは、泉を備えた大小の中庭や、裏手を流れるブレンタ川の支流に通じる緑地帯の存在が確認できる(いずれも現在は消失)。これらのゾーンには植物園も顔負けの珍花奇葉が栽培されていたという。過密な都心部にありながら、豊かな自然と触れ合うことができるこの環境は、まさに「市中の山居」といった風情がある。
中央玄関を入ると、広々としたエントランス・ホールに出る。その左右に書斎と食堂が置かれ、ベンボ自慢のアート・コレクションが所せましと飾られていた。1530年代の記録によればヤコポ・ベッリーニ、マンテーニャ、ラッファエッロら名だたる巨匠の絵画が二十点あまり、その他にも古代の陶器やメダル、彫刻や碑文、ガラス器や各種宝飾品などの蒐集品が確認できる。もちろん蔵書も汗牛充棟で図書室は上下二フロアにまたがっていた。ここに漂うのは、美と知が分かちがたく融合した濃厚な文学的オーラ。その知的芳香に誘われて、気鋭の思想家や若き芸術家たちが足しげく主人を訪ね、庭や書斎を舞台に、活気に満ちたサロンが形成された。「ミネルヴァの知恵の聖所」──とは、常連の一人であった文人ベネデット・ヴァルキがこの館を讃嘆した言葉だ。
邸内の装飾として目を引くのが、書斎の天井に描かれたムーサ女神とおぼしきフレスコ画の断片である。同女神を象った像は、ベンボの彫刻コレクションの中にも一体確認できる。学芸をつかさどる九柱のムーサ女神たちは、作家や詩人たちが作品の霊感を求めて常に呼びかける対象であった。おそらく意図的に学芸神をイメージ化し、さらに古代遺物や同時代の一級の芸術作品を邸内に並べ置くことで、創作の刺激とし、あるいは会話の種ともしたのだろう。こうした邸宅=庭の構成そのものが、主人の文芸観の投影でもあったはずだ。
執筆の傍ら各地の宮廷に伺候し、教皇庁での重責も担っていたベンボの日々は、当然ながら超多忙。お気に入りのパドヴァで思索三昧の日々を過ごせるのはもっぱら長期休暇中か、離職中の充電期間であった。その知的閑暇(otium doctum)によりふさわしい環境を提供したのは、郊外に建つヴィッラのほうであった。こちらは庭園により力点が置かれ、芝地の上や樹木の陰には、貴重な古代彫刻や碑文が惜しげもなく置かれていたという。
そもそもベンボをはじめとする当時の人文主義者たちにとって、古代ローマ時代の貴紳たちが文筆や哲学の拠点とした「ヴィッラ」は、憧れの対象であった。たとえば共和政末期の弁論家キケローが残した膨大な書簡集をひもとけば、そのあちこちに、ヴィッラ庭園への言及が見られる。なるほど、古典ラテン散文随一の名文家は、こんな瀟洒な庭付き別荘で執筆に没頭していたのか、ならばぜひ自分もそれをまねて…と、ルネサンス期のキケロー崇拝者たちは思うわけである。
興味深いのはそのキケローが、お気に入りの別荘庭園にムーサ女神の像を望んでいたことだ。代理人に手頃なギリシア彫刻を探させたところ、注文と違う品を見つけてきたといって、こんな怒りの文言を残している。
購入したバッカエ(バッコスの信女)像を、君はメッテルス所有のムーサエ(学芸女神)像になぞらえているね。どこが似ているというのだね。(…)もっとも、ムーサ像なら、私の書斎や研究には似つかわしかっただろう(…)私は、常々、私の教練場(パラエストラ)の一画を飾り、学園(ギュムナシウム)の雰囲気を醸し出してくれるような像を購入することにしているのだ。
「教練場」も「学園」も、ギリシア哲学ゆかりの地(トポス)を想起させる呼称として、キケローが庭園の一角につけた名称である。それにしても学芸女神を頼んだのに、あろうことか乱痴気騒ぎをするバッカエ像をどや顔で見つけてくるとは! キケローならずとも怒り心頭に発するだろう。
ベンボもまた骨の髄からのキケロー主義者であり、作庭の参考としたことだろう。だが古代の弁論家の審美観がもっぱら彫像の選択に注がれていたのに対して、ベンボのヴィッラにおいては、庭から周辺の豊かな自然へと広がるベクトルが感じられる。冒頭に引いた書簡の続きを読んでみよう。
「(…)さてその菜園ですが、これがまた非常に心地よくて美しいのです。自分の手で青菜を取って夕食の前菜とすることもよくあるし、朝には、小籠いっぱいのイチゴを摘んだりもします。食せば口蓋ばかりか、食堂全体が甘い香りに包まれます。菜園や建物、その他あらゆる場所が終日バラで満ち溢れていることには、触れないでおきましょう。また小舟に乗って、我がヴィッラの前を絶えず流れる優雅な小川を行けば、やがてブレンタ川に至ります(…)大地を散策するよりも水のほうに惹かれる時などは、夜遅い時間まで船行を楽しむことも」
読書や執筆に倦んだとき、書斎を出て菜園を愛で、その先の林苑までぶらりと散策。気が向けば小舟で漕ぎ出して大河ブレンタにまで足を延ばす(図2)。庭園がいつのまにか自然風景に溶け込み、両者が一体化してその境目は判然としない。庭を高い壁で囲っていた中世には見られない発想だ。
図2 ブレンタ川の情景
出典:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/bd/Sarmazza_2.jpg
他方でベンボのこの書簡は明らかに、キケローとは別の古代モデルも参照にしている。読み手もすぐに了解したことだろう。すなわち帝政期ローマの官僚文人小プリニウス。自身が所有するヴィッラ庭園での文学的閑暇を、手紙という形式に乗せて美しい言葉で綴った作家だ。なかでも次に引くプリニウスの書簡は注目に値する。
「そのときふと顧みて、『何と多くの日々を、いかに下らぬことのために浪費したことか』と悟ったのです。こういった感懐は、私の場合、ラウレントゥムの別荘に退いて、何かを読んだり書いたり、あるいは体を労(いたわ)っているとき(…)浮かんできます。田舎では聞いて後悔するようなことは何も耳にせず、言った後で悔やむようなことは何も言わず、目の前には誰かを不快な陰口で引き裂く者もおらず、私自身誰をも責めず──良い文章が書けなくて自分を詰(なじ)る以外は──いかなる期待にもいかなる不安にも惑(まどわ)されず、ただ私とのみ対話し、そして本と話すだけです」 (國原吉之助訳)
内容はもとより、文辞や構成までそっくりだ。このように古代の複数の文学モデルを参照して作り上げたのが、ベンボのヴィッラであった。当時はまだ考古学上の発掘成果が乏しく、古代ローマ期のヴィッラや庭を復元しようとする際、ほぼ唯一の手がかりを提供してくれたのが同時代の詩や文学であったのだ。ルネサンス期の人文主義者たちは、文章の中に生き生きと描写された庭の姿(エクフラシス)に思いをはせ、己の文学的感性に従って複数のテクスト断片をあれこれと接ぎ木し、独創的な文学空間としてのヴィッラ庭園を作り出していたのである。文字が、単語が、詩句が、紙葉から解き放たれて物質化する圏域とでもいおうか。そうやって作り出された庭園=書物は、いつしか、その空間に身を置く者の執筆活動とわかちがたく融合してゆく。
ベンボの若書きの著作『エトナ山』(1496年)は、対話の舞台として、まさにノニアーノの地にあった彼のヴィッラ庭園が選ばれている。またこれほど直接的ではないが、ネオプラトニズムの美しき愛の対話篇として人気を博した彼の『アーゾロの談論』(1505年)でも、哲学的会話が交わされる舞台として、四分割された整形庭園が登場する点は示唆的だ。愛をめぐる四つの理論が作品の骨格であることを考えるなら、背景となる庭の物理的な形状と作品主題との一致は、意図的なものであった可能性が高い。
ルネサンス期の人文主義者たちは、それぞれに工夫を凝らして美しいヴィッラ庭園を造営した。古代の書簡や詩から造形の着想を受け取り、そうして生まれた具象的な庭のかたちが、今度は別のテクストを新たに紡ぎだしてゆく。まさに言の葉が舞う庭──そう形容するにふさわしい庭園であった。
〈主要参考文献〉
・Pierre de la Ruffinière du Prey, The Villas of Pliny. From Antiquity to Posterity, Chicago & London, The University of Chicago Press 1994
・Elisa Curti, “Gli ozi di Pietro Bembo. Echi letterari e passione antiquaria nella Descriptio Horti Bembesca”, Lettere Italiane, LXII, 2010, pp. 450-463
・G. Beltramini, D. Gasparotto, A. Tura (eds.), Pietro Bembo e l'invenzione del Rinascimento, Venezia, Marsilio 2013
・Herald Hendrix, “Italian Humanists at Home: Villas, Libraries, and Collections”, in Rosanna Gorris Camos, Alexandre Vanautgaerden (eds.), Les labyrinthes de l'esprit. Collections et bibliothèques à la Renaissance, Genève, Droz, 2015… Droz, 2015, pp. 25-42
・Susan Nalezyty, Pietro Bembo and the Intellectual Pleasure of a Renaissance Writer and Art Collector, New Haven and London, Yale U. P., 2017
・國原吉之助訳『プリニウス書簡集:ローマ帝国一貴紳の生活と信条』、講談社学術文庫、1999年
・高橋宏幸他訳『キケロ―選集第15巻:書簡III 縁者・友人宛書簡集I』、岩波書店、2003年
・ピエトロ・ベンボ著、仲谷満寿美訳『アーゾロの談論』、ありな書房、2013年