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「ヨーロッパ綺想庭園めぐり」桑木野幸司

第11回 架空庭園憧憬:バビロンの空中庭園から湖上に浮かぶバロックの懸垂苑まで

 伝説は語る──人類文明の暁の頃、大河ティグリスとユーフラテスに挟まれた豊沃の地に、強大なひとりの王がいた。新バビロニアの国王ネブカドネザル二世(在:前604―前562年)である。
 王の権勢は並ぶものなく、強勢な軍隊で四隣を征服すると、莫大な富を蕩尽して豪壮な宮殿を建て、町々を作り、運河や街道網を整備した。だがひとつだけ、どうしても手に入らないものがあった。愛する女性の笑みである。遠く北の異国から輿入れした美しい王妃が、日々、沈鬱な面持ちでため息をつくばかりで、一度として愁眉を開いたことがないのだった。
 妃よ、そんなに故郷の山河が恋しいか──王は、彼女の生地メディアの風景を王都バビロンに再現しようと思い立った。だが緑豊かな異邦の山岳地誌を、どうやって平坦な市邑に造りだせばよいか。そこで国中から優秀な技師、建築家、造園師を呼び寄せ、彼らのアイデアをもとに、階段状の巨大な高層建造物を王宮の一画に造営した。露段にはたっぷり土を盛り、北方の山地に自生する花樹菓林、清香ただよう木々や芳草を植え込み、花絨毯を一面に敷き詰めて、天を摩す大庭園としたのだ。河に付設した揚水機によって、頂上から最下段まで昼夜絶えることなく水があふれ、噴水が清音を奏でつづけたという。
 王妃はその情景を見て、はじめて笑った。

 伝説はさらに語る、幻想の度合いをいっそう深めて──ネブカドネザル二世の治世より遡ることおよそ二百年、アッシリア帝国の時代のお話。青年と恋に落ちた女神デルケトーは女児を生んだものの、人と子を成したことを恥じ、赤子を荒野に投げ捨て、湖の中に去ってしまった。憐れんだ羊飼いに拾われた女の子はセミラミス(「鳩」の意)と名付けられ、絶世の美女へと成長した。その美貌はやがてアッシリア王ニノスの心を虜にし、妃に迎えられる。王の死後、権力を掌握した彼女はアジアの全域を征服し、リビア、エチオピア、インドの王たちとも矛を交えて一歩も譲らす、また古都バビロンを再建して壮麗な架空庭園を築いたという。死後、一羽の鳩となって天に飛び去った。

 いずれも、古代世界の七不思議のひとつ、バビロンの「架空庭園」の起源譚とされるものである。「空中庭園」とも訳されるこの語は、ギリシア語のκρεμαστός κήπος(クレマストス・ケーポス)から来ており、κήποςが「庭」という名詞、κρεμαστόςのほうは「吊り下げられた」といった意味合いの語だ。いつしかそれが、蒼天から吊られた庭、空中に浮遊する庭園、といった誇張された幻想的なイメージをまとうようになった。

 史実は示す──バビロンの架空庭園は古代世界の七不思議のなかで唯一、遺跡の所在が知られていない。ではまったくのおとぎ話かというと、そうでもないようだ。遺跡の最有力候補のひとつが、二十世紀初頭にバビロンの南王宮と呼ばれる一画で発見された、頑強なアーチ架構建造物の遺構だ。一時期、これぞ伝説の架空庭園の動かぬ証拠かと騒がれたものの、最新の学説によれば穀物倉庫の跡ではないかという。
 バビロンという都市にこだわらないのなら、アッシリア帝国極盛期を現出せしめたセンナケリブ王(在:前704-前681年)の事績が興味深い。王は首都ニネヴェの王宮そばに、帝国領最外縁域にそびえるアマヌス山脈の地誌・動植物相をそっくり写し取った巨大な高層庭園を造ったほか、市壁外の広大な耕地にも庭園や公園を造営してシリアやカルデア等の異国の樹木を育て、臣民に開放したという。こうした異邦や異域の地誌を再現した壮麗な庭園文化と、それを支えた高度な灌漑・治水技術の記憶が、いつしかバビロンの架空庭園の伝説と融合したのではないか、と考える学者が多い。

 上に見た古代の作庭伝説と史実は、西欧の庭園芸術の展開に大きな影響を与えた。まず伝承から見てゆくなら、庭を捧げられるか、あるいは自ら造るかの違いはあれど、いずれも女性が庭の誕生に大きな役割を帯びている点が興味深い。女性と庭の結びつきは中世においてさらに緊密化し、やがて聖母マリアを「閉ざされた園」と見なす神学・図像学の伝統を生み出す。さらには伝説の語る庭が、空中に聳えている、ないしは地上から高く持ち上がった高層テラス上に設けられている、という点は、造園技術上の刺激的な挑戦課題として、人々の創作意欲をかきたてた。
 また史実が示す古代アッシリアの庭園文化、すなわち自国領土や異邦の豊穣な地誌・動植物相を王宮の庭に再現する慣習は、権力誇示の手段として、後世の王侯貴紳たちに連綿と受け継がれてゆくことになる。
 これらの点をふまえつつ、以下に、この架空庭園をめぐる西欧造園史のきらびやかな展開をスケッチしてみたいと思う。

 七不思議のひとつに数え上げられる架空庭園は、それをとりまく幻想イメージの一切を振り払い、純粋に技術的観点から見るなら、一種の「懸垂庭園」(hanging garden)とみなすことができる。懸垂庭園という語もやはり「吊り下げた庭」、という意味ではあるのだが、造園学ではもうすこし広い概念をカバーしており、ベランダや屋上などの高架スペースを緑化したものも指す。今はやりの屋上庭園や壁面緑化も、その一類型である。
 したがって、歴史上無数に試みられたバビロンの架空庭園の復元案のなかでも、建築家や造園技師がある程度の実現性を念頭に構想したものは、この懸垂庭園形式のものが多い。また、施主や設計者がことさら古代の伝説を意識していなくとも、実現した大規模な懸垂庭園が、それを見る人の心にバビロンの空中庭園を想起させることも多かった。
 さて、この不可思議な庭を描いた図像が目だって増えるのは、ルネサンスからバロックにかけての時代である。それは、この時期に西欧の造園技術が急速に発達し、大規模な懸垂庭園の実現が可能になったことに加え、印刷・版画技術の洗練によって、古代世界の驚異の庭のイメージが人々に広く共有されたためであろう。そこで腕に覚えのある建築家や、博学な古代史学者らが、時代の最先端の技術や知見を駆使して、魅力的な復元案を競いあったのである。
 そうした提案のなかでも、早い時期のなんとも愛嬌のある一例として引きたいのが、世界地誌学者コスモグラファーセバスティアン・ミュンスター(1488-1552年)のベストセラー著作『コスモグラフィア(世界地誌)』の、1545年版に収録された古拙な表現の木版画だ(図1)。いやこれ、どうみても盆栽だろう、とつっこみを入れたくなる図であるが、地誌学者なりに想像力をはたらかせ、中空に浮いた庭を、巨大な柱によって支えられた巨大な鉢/テラスとして解釈したわけだ。

(図1)

 これとは比較にならないぐらいリアルで迫力のあるイメージを提案しているのが、バロック期の万能博士にしてイエズス会士のアタナシウス・キルヒャー(1602-80年)だ。著作『バベルの塔』(1679年)に収録された二枚の図版(図2a - b)は、ディテールこそ異なるものの基本的な構成は同じで、四角形の平面に四段のテラスを重ね、強力な中央軸線で全体をまとめあげている。各テラス間は左右対称の二重階段で連結され、テラスごとに異なるデザインの整形庭園が敷かれている。注目すべきは構築物の荷重を支えるための側面の連続アーチで、これはコロッセオや水道橋、パンテオンなど、古代ローマの建築技術の応用であるとともに、装飾ボキャブラリーはルネサンスからバロック期に発展した古典主義建築のモチーフに溢れている。庭園史の観点からは、ブラマンテが設計したヴァティカンのベルヴェデーレの中庭(十六世紀初頭)の構成が下敷きにあると指摘できるだろう。

(図2a)

(図2b)

 他方で、懸垂庭園ないしはルーフガーデンの実現例も十五世紀から増えて来る。特に園芸好きのメディチ家が支配していた十六世紀のトスカーナ大公国、とりわけ首府フィレンツェでは、君主も臣民もこぞって屋上庭園づくりに精を出したという。たとえば、現在はウッフィーツィ美術館の人気のカフェとなっている、「ランツィの回廊」の屋上スペース(図3)も、かつては、庭狂い(furor hortensis)の大公フランチェスコ一世・デ・メディチ(在:1564-87年)お気に入りの懸垂庭園であった。往時には四~五枚の花壇が敷き詰められ、二〇〇鉢の植物と噴水によって飾られていた。その揚水システムを担当したのが、プラトリーノ庭園の設計で知られる綺想異風の建築家ベルナルド・ブオンタレンティである。
 大公はここで夕食を取りながら音楽を聴くのが楽しみであったという。庭には珍花奇葉のほか、オレンジ、レモン、モモ、野菜類が植わっていたというから、新鮮な果実や蔬菜をほおばりつつ、妙なる楽の調べに気分をたゆたわせながら、芸術の都フィレンツェの美しい夜景に眺め入ったのだろう。

(図3)

 さてバロック期を代表する懸垂庭園の傑作というなら、北イタリアのマッジョーレ湖に浮かぶイゾラ・ベッラを挙げないわけにはいかない(図4)。同時代のキルヒャーの壮麗な庭のイメージをも凌駕する、まさに実現した楽園ともいうべき作例だ。

(図4)

 イゾラ・ベッラ(Isola Bella)すなわち「美しき島」と呼ばれるこの大庭園は、お隣に浮かぶイゾラ・マードレとともに、ミラノに基盤をもつ有力貴族ボッロメーオ家の所有になる(現在も)。十六世紀初頭は「下の島」(Isola Inferiore)と呼ばれ、わずか数戸の漁村と小さな教会・礼拝堂があるのみで、大部分が荒涼たる岩肌に覆われていた。
 この湖上の寂寞たる岩塊が、のちに「夢幻の湖に錨を降ろしたアルミーダの庭のごとし」(E. Wharton)と謳われる美観へと変貌するきっかけとなったのが、カルロ三世・ボッロメーオ(1586-1652年)が妻に抱いた、限りない愛情だった。残された記録からわかるのは、1631年、カルロが妻の「楽しみと気散じのために」瀟洒な別荘の建設を思い立ち、その前面に広がる岩地を均してテラス構成とし、オレンジやレモンの実がたわわに実る樹檣で飾りたい、と願ったことだ。
造園は着々と進展し、早くも1634年には、現在も島の南部に見られる十段のテラス庭園の骨格が完成していた。同時に、給水のための巨大な揚水機を内蔵した八角形の塔(ノリアの塔)が建設され、黄金に輝く柑橘類に覆われた信じがたい光景が、魔法のように突如湖上に出現した。冬の寒さがとりわけ厳しい北イタリアにありながら、湖の周りをぐるりと囲む山地が冷気をことごとく遮断し、一年中温暖で穏やかな気候を保っていることも、南国の植物を育てるうえで有利に作用した。これ以降、島は、カルロの妻イザベッラの名をとってイゾラ・ディ・イザベッラ(Isola di Isabella)と呼ばれるようになり、やがてそれが縮約されて「イゾラ・ベッラ」となった。
 カルロを継いだボッロメーオ家の当主ヴィタリアーノ六世(1620-90年)の代になると、イゾラ・ベッラの美しさにさらに磨きがかかる。十段テラスの北辺に、三層構成の書き割りのような壁面を立ち上げ、その前に広がるスペースを整地して、テアトロ・マッシモ(大劇場)を作り上げたのだ(図5)。その、まさにバロック空間の極致ともいうべき圧倒的な造形と構成は見る者を圧する。頂部には一族の家紋たるユニコーン像が跳躍し、最上段の壁龕にはマッジョーレ湖の擬人像、第二層には湖に注ぎ込む二本の川を表す横臥像、そして最下段にはディアナ女神とニンフがたたずむ。テラスをぐるりと巡る欄干の上にはオベリスク、尖塔、壺、プットー像が密なリズムで林立し、まるでツンツンと天に向かって針を立てた優雅なハリネズミのように見えなくもない。

(図5)

 筆者の調べた限り、この庭の施主たちがバビロンの架空庭園の再現を念頭においていたという記録は見いだせなかった。けれどもこの島を遠方の湖上より見やるなら、それはまさに、古のバビロンの空中庭園の姿とはこのようなものではなかったのか、との感懐を見る者に与える偉観となっている。湖面が青く澄んでいるため、まさに、空に浮かぶ幻想的な懸垂庭園のごとき印象が自然と生まれるのだ。また庭の誕生のきっかけに、女性の存在が大きく与っていた点もまた、古代の伝説を連想させる要素になっている。
 イゾラ・ベッラはその奇跡的な美しさによってたちまち欧州中に知れ渡り、ナポレオンも妃とともに滞在したほか、グランドツアーの世紀には、かならず立ち寄るべきスポットとして人気を博したという。だがいつしか庭のブームはバロック庭園の人工・幾何学的整調美から、風景式庭園の穏やかな自然美へと移ってゆき、島の存在も忘れ去られてゆく。イゾラ・ベッラが長い忘却の淵から目覚めるのは、十九世紀末を待たねばならなかった。
 そして二十一世紀の現在、この島はふたたび人気の観光地として世界中の人々を魅惑している。訪問客を運ぶ水上タクシーからこのボッロメーオの美しき庭を見る機会があったら、ぜひ、古代より連綿とつづく浮遊する庭の夢想に浸ってほしい。

図版出典
01:セバスティアン・ミュンスター『世界地誌』(1545年)収録のバビロンの架空庭園
出典:Sebastian Münster, Cosmographia : Beschreibung aller Lender, Basel, Petri, 1545, p. lxxxiii.

02:キルヒャー『バベルの塔』(1679年)収録のバビロンの架空庭園
出典:Athnasius Kircher, Turris Babel, sive archontologia (...), Amstelodami, Ex Officina Janssonio -Waesbergiana, 1679.

03: かつてのウッフィーツィ・ギャラリーの懸垂庭園(筆者撮影)

04:イゾラ・ベッラ
出典:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/98/Borromeo-P3P-20170530-010_%2836234155645%29.jpg

05:テアトロ・マッシモ(筆者撮影)

主要参考文献:
・Marherita Azzi Visentini, “Island of Delight: Shifting Perceptions of the Borromean Islands”, in M. Conan (ed.), Baroque Garden Cultures, Washington D.C., Dumbarton Oaks, 2005, pp. 245-289.
・Maria Giovanna Biga-Marco Ramazzotti: “I giardini dell’Eden: mito, storia, tecnologia”, in Giovanni di Pasquale – Fabrizio Paolucci, Il giardino antico da Babilonia a Roma. Scienza, arte e natura, Livorno, Sillabe, 2007, pp. 22-43.
I giardini delle Isole Borromee, testi di Lucia Impelluso, Milano, Electa, 2017.
・Alessandro Morandotti – Mauro Natale (a cura di), Vitaliano VI Borromeo. L’invenzione dell’Isola Bella, Milano, Mondadori – Electa, 2020.
・『ユリイカ:特集 空中庭園』、青土社、1996年4月
・山田重郎『アッシリア:人類最古の帝国』、ちくま新書、2024年

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著者略歴

  1. 桑木野幸司(くわきの・こうじ)

    1975年、静岡県生まれ。東京大学大学院工学系研究科博士課程単位修得退学。博士(文学)(ピサ大学)。第8回(平成23年度)日本学術振興会賞受賞。大阪大学教授。専門は西洋建築史・庭園史・美術史。
    主な著書に、『ルネサンス庭園の精神史――権力と知と美のメディア空間』(第41回サントリー学芸賞(芸術・文学部門)受賞、白水社)、『記憶術全史 ムネモシュネの饗宴』(講談社選書メチエ)、『叡智の建築家』(中央公論美術出版)、『ルネサンスの演出家ヴァザーリ』(共著、白水社)、『ブラマンテ 盛期ルネサンス建築の構築者』(共著、NTT出版)など。
    主な訳書に、ヴォーン・ハート+ピーター・ヒックス編『パラーディオのローマ』、ジョン・カナリー『古代ローマの肖像』、アンドルー・ペティグリー『印刷という革命』(以上、白水社)など。

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