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「ヨーロッパ綺想庭園めぐり」桑木野幸司

第1回 ヴィッラ・マダーマ幻想:文人、建築家、エクフラシス

 カトリックの総本山・ローマ教皇庁の圧倒的な麗姿は、信者ならずとも、訪れる者を陶然たる境地に誘う。なにしろ、天を衝くサン・ピエトロ大聖堂の円蓋を脇に従え、翠色滴るベルヴェデーレの中庭を内に抱えているのだ。その驚嘆すべき建築群が、実は、古代「ウァーティカーヌス」と呼ばれた高地を占めていることは意外と知られていない。そして、その聖なる丘から北に二キロ半あまりのところにもうひとつ、秀雅な丘陵がそびえていることを知る人は、なおのこと少ないだろう。幽静な趣につつまれたその小丘こそは、かつては北方からローマを訪れる者が必ず眺望を楽しんだという、モンテ・マーリオ(マーリオ丘陵、標高139m)である(図1)。


図1 マーリオ丘陵からローマ市景を遠望する (リチャード・ウィルソン≪ヴィッラ・マダーマからのローマの眺め≫、1753年)
出典
https://www.wikidata.org/wiki/Q23758113#/media/File:Richard_Wilson_-_Rome_from_the_Villa_Madama_-_Google_Art_Project.jpg

 1519年の陽春、その草木織りなす甘き斜面の一画は、けたたましい轟音に包まれていた。土の掘削が生む重々しい振動、石を砕く槌音、重機が発する悲鳴のような軋み、工人や職工たちの掛け声や怒声。付近のテーヴェレ河岸からは、大理石や木材がひっきりなしに運び込まれている。
 今、喧騒が支配するその現場を見下ろしながら、一人の男が佇んでいる。その宮廷文人風の典雅な衣装は、塵芥舞う作業場にはいかにも場違いだ。と、おもむろに、懐から紙を取り出し、ペンで標題を書きつける:「言葉によりて普請されしジューリオ・メディチ殿のヴィッラ」(Villa Iulia Medica versibus fabricate) 雅な韻文がその下の余白を埋めてゆく。
 男の名はフランチェスコ・スペルロ。当時のローマ教皇レオ十世ならびにその同族のジューリオ・メディチ枢機卿の宮廷に伺候していた文人だ。その彼が訪れ、詩の着想を得たのは、後にヴィッラ・マダーマと呼ばれることになる建物と庭園の建設現場である。
 詩人は謳う──作業場の熱気を、その激しき槌音を、積みあがる基礎の魁偉なるを。1519年3月1日付で上梓された、407行のヘクサメトロスからなるそのネオラテン詩(Biblioteca Apostolica Vaticana, Vat. Lat. 5812)の冒頭部で、スペルロはまず、マーリオ丘陵の詩味豊かな風情を褒めたたえる。ついで大河テーヴェレの神が登場し、施主一族のジューリオ・メディチに語りかけるかたちで、詩行は進んでゆく。私(=河)が運ぶ建材の大理石は、古代の遺跡より切り出した高貴なものばかり、さあ、これらの貴石銘石が積みあがる様をご覧あれ、と。
 ところがである。詩が発表された当時の建設現場といえば、まだようやく基礎工事に着手したところだというのに、言葉は至妙の韻を奏でつつ、つぎつぎとまだ見ぬ建築の姿を、微に入り細を穿って描き出してゆく。行間から立ち上がる壮麗な壁、屋根を覆う円蓋、鮮やかな壁画を背景に居並ぶ荘厳な彫像群。まるでその目で見てきたかのごとき迫真の描写だ。単なる妄想を綴ったものなのか、あるいは、パトロンへのおもねりが生んだ冗凡な駄文なのか。

 ヴィッラ・マダーマというのは後世の呼称で、本来ならスペルロの詩の標題のごとく、ジューリオ・メディチのヴィッラとでも称すべき施設だ(図2)。よく知られているように、計画のごく一部が実現したのみで終わった。けれども、その「計画」には、気宇壮大な意図が込められていた。


図2 ヴィッラ・マダーマ (ユベール・ロベール≪ローマ近郊のヴィッラ・マダーマ≫、1760-62年)
出典
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d7/Hubert_Robert_-_Villa_Madama_near_Rome_%28Hermitage_Museum%2C_%D0%93%D0%AD-5649%29.jpg

 戦闘的教皇ユリウス二世の後を継いで教皇位に着いたメディチ家のレオ十世(ロレンツォ豪華公の息子)は、同族のジューリオ・メディチ枢機卿とともに、国際的な平和政策を推進した。剣ではなく、ペンと絵筆の力で、文化芸術の花開く黄金時代を現出せしめようとしたのだった。戦乱に倦みつかれた世の大半は、それを歓迎した。
 ルネサンスすなわち古代復興運動の先端の地であった聖都ローマに、古代の壮麗なヴィッラを復興させ、迎賓館としよう。ウィトルーウィウスや小プリニウスが文字で伝えた貴紳の別荘を完璧に復元することで、教皇庁の文化的威信を世界に発信しよう。そんなコンセプトのもとに、1518年頃から、マーリオ丘陵の斜面を敷地とした壮大な建築=庭園コンプレックスが計画された。だから、スペルロが詩を献呈したのは、着工からわずか半年後ということになる。まだ壁すら立ち上がっていなかっただろうし、デザインも未定の部分が多かったはずだ。そして、その「デザイン」をおもに担当したとされるのが、ラッファエッロであった。一般に画家として知られるが、晩年には建築設計にも才幹を発揮し、サン・ピエトロ大聖堂の建築主任にも抜擢されている。
 同ヴィッラの研究はこれまで、残されたわずかな図面や書簡資料、実際に建設された部分などを突き合わせ、天才建築家ラッファエッロが抱いたであろうオリジナルの設計案を復元することに、エネルギーを集中してきた。その結果、図面資料もある程度整理され、アイデアの進化がおぼろげにたどれるようになった。それはそれで、素晴らしい成果といえよう。けれども──
 近年、ルネサンス期の建築や庭園の設計、とりわけ規模が大きなものについては、その造形成果ばかりでなく、デザイン・プロセスも同等に重視すべきではないか、とする立場が現れてきた。つまり、建築家がひとりアトリエに籠って設計図(完成図面)を引いたと考えるのは現代人の幻想にすぎず、実際には多人数による共同設計的なフェイズや、多彩な関係者たちによるアイデアの交換という側面があったのではないか。
 そうした立場に立った時、にわかに輝きを放ちだすのが、そう、冒頭に紹介したスペルロの詩だ。これは決して単なる追従詩などではなく、むしろ、詩人から建築家への挑戦ではないのか。実際、メディチ家の祖先の彫像群を詩句で造形しながら、さあラッファエッロよ、とはっきり名指ししたうえで、これらの誉れ高き像たちをどこに置くかね(l. 164: qua parte locabis?)、と不敵に問いかける箇所があり、そのすぐあとで、詩人自身の提案を綴っている。他にも、装飾プログラムばかりか、それを収める建築スペースのディテールまで思い描いている行もある。あるいは、建物の主要パートたる中央ロッジアを述べる箇所では、再びラッファエッロの名を挙げて、彼に、古代の画匠をも上回る出来栄えの壁画を描かせようぞ(l. 274)と、まるでスペルロこそが設計総主幹であり、ラッファエッロはその手足にすぎないかのような書きぶりも見られる。

 当時の教皇・枢機卿の宮廷では、晩餐の席などで、文人や貴紳、芸術家らが、思い思いに、現在進行中の大プロジェクト(壮大な建築、祝祭行事、出版企図など)について意見を述べ、詩を詠唱し、図匠を披露する慣習があったという。一種のブレインストーミングだ。スペルロの詩は、そうした儚き知の饗宴の痕跡をとどめる、貴重な資料の可能性があるのだ。
 ここで、詩人が駆使した修辞技巧に注目してみよう。当時の詩が目指したのは、言葉で描述した内容を、読者の精神裏に鮮烈な映像として描き出すことであった。そうした精彩なメンタル・ピクチャーを形成するための種々の技巧をエクフラシスといい、さまざまな対象に適用された。なかでも視覚芸術を言葉で鮮やかに描写することが、ひとつの文芸ジャンルを形成するまでに至る。スペルロの詩はまさにそのタイトルに謳うように、メディチ家のヴィッラを言葉で建設した、エクフラシスの典型なのだ。
 施主・パトロンの頭の中にある漠としたアイデアに、具体的な造形イメージを与えてゆくツールとして、図面と言葉が同等の重みを帯びていた──ルネサンスとはそんな時代であった。建築家が立・平面図や模型で建物の具体案を示すのなら、詩人はエクフラシスを駆使し、言葉で建築を設計してゆく。
 その背後には、詩と建築の競合(パラゴーネ)関係があった。どちらが優れているか。どちらがパトロンの覚えめでたき地位を獲得するか。己の才幹ひとつで宮廷を渡り歩いていた文人や芸術家たちにとって、それは死活問題であっただろう。スペルロは、己の人文主義者としての博識を最大限に活用しながら、メディチ家を称賛する緻密かつ鮮烈な装飾プログラムを創案し、それを自信をもって建築の各部分に割り当てていった。自分こそはヴィッラの設計者だとの自負とともに。

 対するラッファエッロも負けてはいない。建築家の矜持にかけて、図面類(図3)や模型を大量に制作し、設計の指揮を執ったはずだが、現存する資料はわずかだ。興味深いのは、彼の手になる書簡(俗語による散文)が残されていることだ。おそらくは友人のカスティリオーネに宛てたその文の中で、建築家は目下設計中のヴィッラについて、その構成要素や配置、デザインなどを、事細かに文章で綴っている。私信のかたちをとりつつも、コピーが複数つくられ、知人・友人たちのあいだで回覧愛読されていたらしい。


図3 ラッファエッロの手による庭園計画図(Uffizi, Gabinetto Disegnie Stampe, n. 1356Ar.)
出典:C. L. Frommel – S. Ray – M. Tafuri, Raffaello architetto, cit., p. 320.

 正確な執筆年は不詳であるが、スペルロの上述の詩と相前後する時期が有力視されている。詩のほうが先であったなら、これは面白い。ラッファエッロが挑戦を受けて立ったことになるからだ。あるいは書簡のほうが先でも、やはり興味をそそられる。詩人の側が闘争心を燃やし、ペンの力で建築設計の主導権を要求したことになるからだ。もちろん、両者が互いの存在を知らずに執筆した可能性もゼロではない。
 両テクストの関係を吟味する上で興味深い事実がある。スペルロの詩は、その407行にわたる詩の大半を、ヴィッラ内の二つの装飾の描写に宛てている。メディチ家の祖先たちの彫像群(設置場所は不詳)と、中央ロッジアの大壁画だ。そして最終段付近(ll. 378-391)において、ヴィッラを構成する様々な要素──望楼、中庭、劇場、塔屋、ポルティコ、噴水、水路、テラス庭園(xystus)、養魚池、ヒッポドローム、厩舎──の名称のみを、つらつらと列挙したのち、これらについては触れずにおいた・・・・・・・、として詩を結んでいる。
 それに対してラッファエッロの書簡は、まさに詩人が省略した建築要素や庭園の構成について、具体的な寸法や形態描写をまじえて、詳細に綴っているのだ。現存する平面図と突き合わせて読むなら、かなり正確にヴィッラの完成予想図を描くことができる。特にほとんど施工されずに終わった庭園は、アイデアの中では、彼方のミルウィウス橋につらなるランドスケープ規模の軸線を想定していたことが推察され、庭園史の観点からも非常に興味深い。
 ヴィッラの設計案は、試行錯誤を繰り返しながら、複雑な経緯をたどって発展していったことが、これまでの研究によって明らかにされている。政治的な思惑のもと、巨額の建設資金が動き、無数の海千山千の人々が様々な仕方で事業に関与したことを考えれば、むしろすんなり実施案が決まると考えるほうがおかしい。そうした紆余曲折の過程のなかに、スペルロをはじめとする文人たちからの代替案の突き付けや、その他の多様な関係者(施主自身、エージェント、利権者、画家や彫刻家など)からのアイデアの提案があり、またそれらのスタッフの間で苛烈な主導権争いがあったことも十分に考えられる。天才ラッファエッロといえど、その地位は安泰ではなかった。建築の設計には、定規とコンパス以外のものも必要なのだ。
 スペルロの詩は、庭園については黙して語らない。そして、庭のアイデアを披露するラッファエッロのいくぶん拙い筆致は、あまりに散文的だ。もし、詩人がその修辞技巧の限りをつくして、幽雅な風色につつまれた苑池や、目もあやな庭園装飾を詩文に織り紡いでくれていたのなら……そんな想像もしてみたくなるほど、マーリオ丘陵のメディチ家のヴィッラは、幻想とうつつのあわい・・・を今なお漂っている。

参考文献:Yvonne Elet, Architectural Invention in Renaissance Rome: Artists, Humanists, and the Planning of Raphael’s Villa Madama, Cambridge, Cambridge University Press 2017.

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著者略歴

  1. 桑木野幸司(くわきの・こうじ)

    1975年、静岡県生まれ。東京大学大学院工学系研究科博士課程単位修得退学。博士(文学)(ピサ大学)。第8回(平成23年度)日本学術振興会賞受賞。大阪大学教授。専門は西洋建築史・庭園史・美術史。
    主な著書に、『ルネサンス庭園の精神史――権力と知と美のメディア空間』(第41回サントリー学芸賞(芸術・文学部門)受賞、白水社)、『記憶術全史 ムネモシュネの饗宴』(講談社選書メチエ)、『叡智の建築家』(中央公論美術出版)、『ルネサンスの演出家ヴァザーリ』(共著、白水社)、『ブラマンテ 盛期ルネサンス建築の構築者』(共著、NTT出版)など。
    主な訳書に、ヴォーン・ハート+ピーター・ヒックス編『パラーディオのローマ』、ジョン・カナリー『古代ローマの肖像』、アンドルー・ペティグリー『印刷という革命』(以上、白水社)など。

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