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「ヨーロッパ綺想庭園めぐり」桑木野幸司

第3回 パナケイアの饗庭: P. A. マッティオーリ『ディオスコリデス薬物誌注解』の世界

 欧米の観光地にたつ瀟洒なホテル、といってもセレブ御用達の宮殿風の大邸館ではなく、そう、三つ星ぐらいの、少し古びているが品の良さが漂っている旅宿を訪れると、よくロビーや廊下や客室に、鳥や鉱物、植物をリアルに描いた小ぶりな絵が掛かっているのを目にする。古色を帯び、どこか気品に満ちたそれら動植鉱物イメージの多くは、十六世紀から十九世紀に西欧で出版された博物学の著作から、挿絵の美しいページを裁断したものだ。
 個人的な話で恐縮だが、こうした額装された博物図譜が飾られた部屋に泊まると、心が弾む。なかでも一番のお気に入りが、十六世紀イタリアの医師・博物学者ピエトロ・アンドレア・マッティオーリ(1501-77)の主著『ディオスコリデス薬物誌注解』から抜粋したイメージたちだ。たった一枚の「マッティオーリ」が部屋にあるだけで、とにかく絵になる。科学的な正確性と高い芸術性とを二つながらに備えた、稀有な作品といえる。


(大)図版入り「マッティオーリ」(1568年以降の版)(筆者蔵)

 とはいえ、同書は十六世紀でも屈指のベストセラーで、増補改訂を繰り返しつつ各国語版で十八世紀まで何度も再販・増刷されたから、今でも意外と手に入りやすい。何を隠そう私も、イタリアの古版画ショップで見かけるたびに、いや、これは決して貴重な文化財の破壊に加担しているのではなく、きっとページが欠損した廃棄予定の古書を有効活用したものに違いない、と自分に言い聞かせながら、どうしようもなく一目ぼれしてしまった「マッティオーリ」の手彩色植物図譜を購入し続け、気が付けば片手に余る枚数を所有している。
 そんな自らの過去の行為の埋め合わせ(?)の意味もこめて、最近、図版を眺めるだけではなく、ちゃんと・・・・本文記述(イタリア語/ラテン語)を読み進めている。すると、著者がこの書物に込めた独創的な工夫がわかってきた。マッティオーリはこの本を、万病薬(パナケイア)の原料となる薬草が生い茂る、一冊の庭として構想していたのだ。その紙葉の織り成す癒しの園生へと、分け入ってみよう。

 近代植物学に多大な貢献をなしたP・A・マッティオーリは、1501年に医師の息子としてシエナで生を受けた。パドヴァ大学とペルージャ大学で医学を修めたのちに、ローマでしばらく医師として活動。1527年の「ローマ劫略」(Sacco di Roma)をきっかけに聖都を離れ、トレント司教ベルナルド・クレシオ枢機卿の侍医としてまずはトレントで、ついでゴリツィアの地に移って開業医を営んだ。医療活動のかたわら、北イタリアの豊かな自然を存分に観察し、薬用植物についての知見を深めていった。
 この時期に編まれたのが、全442ページの大著『ディオスコリデス薬物誌注解』(1544年)である。これは、一世紀の古代ローマ帝政期の医師ペダニオス・ディオスコリデスの著作『薬物誌』五巻(ギリシア語)を、イタリア俗語に翻訳し、詳細な注釈を施したものであった。古代からルネサンスにいたるまで、医薬原料をめぐる知識の源泉であったあのディオスコリデスが、俗語で読める衝撃は大きかった。しかもマッティオーリ自身の見解を述べた「注釈」部分では、新大陸産植物に触れたり、同時代の最新の植物学著作の知見を取り入れたりと、新機軸が盛り込まれ、たちまち人気を博した。けれども意外なことに、この初版には挿絵が一切なかった。文字だけの本である。
 1548年には、200種余りの新発見植物を追加した増補改訂版を上梓(全756ページ)。医学関係者必携の一冊となる。またこの新版には、「偽書」の疑いが高いとされる、伝ディオスコリデス『薬物誌』第六巻・・・、すなわち毒薬・解毒論が加わったことでも注目される。たとえ偽書であっても、その内容をマッティオーリ自身が吟味し、詳細な注釈を付すことで、人々の知的欲求を満たした。ルネサンスという時代が毒殺の世紀でもあったことを想起させる。だが、この版でも図版の収録は見送られた。植物学の世界では、すでに1530年代から、精密な図譜を掲載した著作が次々登場して話題をさらっていたというのに。
 ここで事件が起きる──いや珍事というべきか。なんと、同書の人気にあやかった海賊版が1549年にお目見えしたのだ。おまけに、原著にはなかった図版付きで。稚拙かつ不正確な木版画ではあったが、これが読者の圧倒的支持を得た。この事実をマッティオーリもさすがに無視できなくなり、対抗措置として、自身の監修になる精密な図版を掲載した公認版を作成した。こうして登場するのが、1554年出版の、(小)図版入り「マッティオーリ」といわれるエディションである。


(大)図版入り「マッティオーリ」(1568年以降の版)(筆者蔵)

 そもそもなぜ彼は、これほどまで植物図譜の採用に慎重であったのか。それは、植物は発芽から成長、開花、結実までさまざまに変化するのに、イメージはその一瞬しか切り取ることができないからであった。けれども、根と葉と花と実を同時に描く「異時同図」的なテクニックを駆使することで、ある程度この問題は乗り越えられる。マッティオーリが信頼できる絵師として選んだのが、ウーディネ出身の画家ジョルジョ・リベラーレであった。彼の手によって、1ページ内に2~3点収録が可能な小ぶりの図が562点制作された。狙い通りの売れゆきを示し、複数回増刷された。だが、我々がホテルで見かける「マッティオーリ」は、これではない。
 実はこの公認図版入りエディションの出版が、イタリア人医師の人生を大きく変えた。時の神聖ローマ皇帝フェルディナント一世に献呈された同書が契機となって、皇帝の侍医としてプラハに招聘されたのだ。マッティオーリはこの環境を最大限に利用し、さらなる『注解』の増補改訂版を企図──ついにフォリオ版二巻本、1500ページを超える規模に。図版も全面的に描き直すことにし、画家リベラーレが1ページ大の巨大イメージを含む精密な図版を1000点以上制作した。こうしてまずボヘミア語版(1562年)、次いでラテン語版(1565年)、イタリア語版(1568年)と、立て続けに上梓されたのが、いわゆる(大)図版入り「マッティオーリ」。インテリアに人気のアイテムとして現在流布しているのは、これ以降の版だ。

 いささか書誌の叢林に深入りし過ぎた感があるが、要するにマッティオーリ『注解』には、大きく三つのエディションがある点をおさえておこう。図無し、小図版入り、大図版入りだ。本文の基本構成は、薬効植物(一部鉱物&動物)ごとに、まずディオスコリデス『薬物誌』本文の翻訳(ローマン体で印刷)、その後マッティオーリによる、本文をはるかに上回る分量の注解・補足(イタリック体)が続く。扱われる薬物原料は後の版では優に1000を超えるから、もはや事典と径庭ない。図版は白黒印刷が基本であるが、限定豪華版や君侯への特別献呈版には、鮮やかな手彩色が施された。
 そんな十六世紀の最先端医薬知の宝庫たる本書も、その浩瀚さゆえに、これまでまともに本文を通読した人は少ないはずだ。そもそもこれは読む・・ものではなく、引く・・ためのレファレンス・ブックであるのだから。とはいえ、巻頭に収録された入魂の「献辞」、「読者への言葉」、そして本文第一巻冒頭の長大な「医薬理論概説」の部分には、マッティオーリの掲げる医薬理論や学術観、編集コンセプトなどが吐露されているため、この部分を精読してみると面白い。
 各版を通じてマッティオーリが強調するのは、薬物学という学問の高貴さである。すなわち、薬の素材となる自然素材をあまねく吟味し、その効能を正確に把握したうえで、さまざまな病気や怪我に有効な薬を適切に調合することは、人類の幸福を増進する有徳の営為に他ならない。その尊さゆえに古来、名だたる王侯貴紳らが莫大な財を蕩尽して遠方より薬物原料をもとめ、あるいは輝かしい知性たちが薬理研究に邁進してきたのだ。
 ところがである。その薬物学は中世以降、凋落の一途をたどっている。古代ギリシア・ローマの医薬典籍が不完全なかたちで伝承され、あるいはアラビア医学経由の誤った注釈が紛れ込み、情報の真偽の見分けがつかぬ。ここでマッティオーリは力強く主張する。今こそ、この荒れ果てた「医薬の原野」(campo della medicina)を耕し、雑草を取り払って高貴な植物学知を丹精して、原初の純粋な薬学の「庭」(giardino)の姿に、復元しようではないか! 本書(『注解』)はまさに、そのために編まれたのである、と。
 原初の純粋な庭への回帰という発想は、エデン神苑への憧憬とも重なる。とりわけ印象的なのが1568年版の「献辞」で、植物に囲まれた暮らしの甘美さを強調しながら、こう綴る。造物主たる神は、「人を創造したとき、家や町や宮殿ではなく、他でもない、この上なく心地よいひとつの庭に住まわせたのである。珍花奇葉に満ち、馥郁たる芳草が生い茂る庭の中に」。


(大)図版入り「マッティオーリ」(1568年以降の版)(筆者蔵)

 マッティオーリはまた、自著『注解』を指しても、「この私の新たな庭」(questo mio nuovo giardino)、「この私の卓越せる庭」(questo mio principato giardino)などと称し、本書を手に取れば、一年のどの時期でも、いっさい栽培の労をとらずに、薬草をじっくり観察し、その知識を得ることができよう、としている。当然、本書のコンテンツを充実させることは、庭園の拡張整備のメタファーで語られることになる。日々の研究成果を投入して収載薬物の数を増やし、情報の精度を上げ、編集の工夫を凝らす。特に、当初はあれほど忌避していた図版へのこだわりが興味深く、絵師ジョルジョ・リベラーレの技巧を褒めたたえ、彼の手になる、すべて実物標本から写生した図譜の出来栄えを、言葉を尽くして賞賛している。
 こうした増補改訂を繰り返すことで、かつての「マッティオーリの小菜園」(l'orticello di Mattioli)は、いまや「成長拡大を遂げた庭園」(cresciuto e ampliato giardino)へと発展した。そして「その門扉は、万人に永遠に開かれているだろう」(le porte del quale staranno in perpetuo aperte a ciascuno)。これらの文言から、マッティオーリはおもに、同時代に誕生した植物園を念頭においていたものと推察される。まさに十六世紀半ばに、ピサとパドヴァを嚆矢としてヨーロッパ各地に誕生した近代的植物園は、君侯や政府の支援のもと、世界中から多種多様な異木奇草、奇花珍果を膨大に取り寄せて栽培し、近代植物学発展の礎を築いた施設であった。その門扉は、大学関係者のみならず、都市住人にも広く開放されるのが一般的であった。

 キリスト教世界では伝統的に、神の言葉を綴った聖書を「第一の書物」、その神が創造した自然を「第二の書物」とみなしてきた。新大陸の発見やアジア諸国との交易の発展によって、その造化世界が急速に拡張を遂げたルネサンス期に、薬効を持つ動植鉱物のことごとくを網羅して編纂したのが、『ディオスコリデス薬物誌注解』という、いわば自然という書物の「抜粋集」であったといえる。
 そして膨大な紙葉に薬物原料を悉皆収載したその本は、理想のヴァーチャル植物園であると同時に、あらゆる病苦・傷害から人類を救済する可能性を秘めた、紙上の「万病薬」(パナケイア)でもあっただろう。


(大)図版入り「マッティオーリ」(1568年以降の版)(筆者蔵)

 そんな思いを抱いて、今、わが書斎に飾られた「マッティオーリ」を眺めるなら、あたかも庭園からお気に入りの美花を手折ってきて花瓶に差したがごとく、部屋の一画に小さな苑が出現したような錯覚にとらわれる。やはり「絵」になる──わが煩悩は尽きることなく、この先も、博物図譜のコレクションは続いてゆきそうだ。

<参照資料>
・Pietro Andrrea Mattioli, Il Dioscoride dell'eccellente dottor medico m. P. Andrea Matthioli da Siena; co i suoi discorsi, da esso la seconda uolta illustrati, et diligentemente ampliati: con l'aggiunta del sesto libro de i rimedi di tutti i ueleni da lui nuouamente tradotto, & con dottissimi discorsi per tutto commentato, Venezia, Vincenzo Valgrisi 1548.
・P. A. Mattioli, I Discorsi nei sei libri della Materia Medicinale di Pedacio Dioscoride Anazarbeo…, Venezia, Vincenzo Valgrisi 1557.
I discorsi di P.A. Mattioli. L'esemplare dipinto da Gherardo Cibo: eccellenza di arte e scienza del Cinquecento, a cura di Lucia Tongiorgi Tomasi – Duilio Contin, Sansepolcro, Aboca 2015.

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著者略歴

  1. 桑木野幸司(くわきの・こうじ)

    1975年、静岡県生まれ。東京大学大学院工学系研究科博士課程単位修得退学。博士(文学)(ピサ大学)。第8回(平成23年度)日本学術振興会賞受賞。大阪大学教授。専門は西洋建築史・庭園史・美術史。
    主な著書に、『ルネサンス庭園の精神史――権力と知と美のメディア空間』(第41回サントリー学芸賞(芸術・文学部門)受賞、白水社)、『記憶術全史 ムネモシュネの饗宴』(講談社選書メチエ)、『叡智の建築家』(中央公論美術出版)、『ルネサンスの演出家ヴァザーリ』(共著、白水社)、『ブラマンテ 盛期ルネサンス建築の構築者』(共著、NTT出版)など。
    主な訳書に、ヴォーン・ハート+ピーター・ヒックス編『パラーディオのローマ』、ジョン・カナリー『古代ローマの肖像』、アンドルー・ペティグリー『印刷という革命』(以上、白水社)など。

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