第10回 SOLIDARITEの両義
号外記事ですごめんなさい。「solidarité 連帯」について、このちっぽけなわくのなかにかけることを。ただ、これもやっぱり「おるたな」のはなしではある。
solidaritéということばを、フランス人はよくつかう。日本語訳は「連帯」、かたいことば。家族やまちやむら、国家といった共同体の成員間の社会的・精神的なむすびつきのことで、新聞などをよんでいると、テロ事件の犠牲者たちのために自宅のまどに国旗をかかげますか、ときかれて「はい」とこたえるすくなからぬひとたちが、この語をつかう。「テロ犠牲者へのsolidaritéのしるし」のように。この語の語源は、ラテン語のil solidum、フランス語にするとpour le tout、「全体のため」ということ。
個人がささえあうことで、人間は同情や共感によってつながることに成功し、いまのような複雑な社会ができあがった。おなじ共同体をいきるものという意識があるから、「フランス人」がフランスでの事件の犠牲者をいたむことができる。それだけではなく、筆者のように、ただフランスがすきなだけでも、毎日なみだがでてきたりするのだ。これは、イヌやサルにもできないこと。人間はすばらしい。そして、そういうときにひととひとをつなぐのが、このsolidaritéなのだとフランス人はいうのかもしれない。共同体内でのつながりのもとにある大事な観念と説明するのかもしれない。
でも、solidaritéにもとづいて国旗をまどにかかげることには、2つの意味がそこにかさなる。1つは、自分という個人を「フランス」という抽象概念(「想像の共同体」ともいう)に接続すること。でも、「フランス」をうごかすのは個人ではない。かつてのイラク戦争にNonといったのも「フランス」だけど、ISを空爆して一般人をまきぞえにするのも「フランス」で、国旗をかかげることで、個人は、個人のさまざまなおもいを、solidaritéつまり「全体のため」に別のおおきなわくぐみに委譲することをうけいれることになる。あらゆる「おるたな」思考は、そこからはじきだされる。もう1つは、solidaritéには通常つねに「外部」が設定されているということ。「家族愛」はsolidaritéのミニマル形態だが、家族のために「他人(=外部)」をおしのけて席をとるという行為もsolidaritéのなせるわざ。国旗をかかげて連帯するのもうつくしくみえるけれど、その連帯は、同時に国旗の範囲にとどまるということ。だから、それはある種の「非情」な行為の可能性をふせげないということを、歴史はもうあきるほどおしえてくれたということ。おるたなは、だから絶対国旗をかかげません。
◇初出=『ふらんす』2016年1月号