第12回 わたしのおるたな主義
最終回です。なので「わたしのおるたな主義」についてヒトコト。
フランス語業界の人間として、なるべくフランス語とかフランス文化とかを愛するようにつとめているけれど、ときどき、なんなんすかこのフランス語は、とおもってしまわざるをえないときがある。
C'est moi qui (vous) le dis. 「そう(あなたに)いっているのはわたしだ」
→だからまちがいない。
C'est vous qui le dites. 「そういっているのはあなただ」
→(あんたはそういうけど)それはどうかね。
両方とも辞書のdireのところに成句表現としてのっている。両者はともに主語のmoi/vousを強調した強調構文である。なにを強調しているかということを2つセットでまとめると、要するに、自分がいうことはつねに絶対ただしい、あんたのいうことはつねにマユツバモノという自己中心主義である。きもちはわかる。この宇宙には、人間のかずだけ世界があり、そのそれぞれの世界の中心にいるのは、当然つねにこの「わたし moi」である。その「わたし」がいうのだから、まちがいはない。そして「あなた vous」には、わたしにみえているこれがみえないかもしれないから、あなたはまちがうかもしれない、だからあなたのいうことを信用するかどうか、真実だとおもうかどうかはまた別問題、という思考法は、ほぼすべてのひとにそなわっている。要するに、あんまりおめでたく他人を信用するなということといえばそういうことになる。
実際、こういう自己中心主義は、それでも「責任」・「主体性」など、西洋近代社会の基本となるもののかんがえかたもはぐくみはしたが、そのいっぽうで、こんなことをいいきっていいのかわからないけど、自分のことを中心からずらす、という「世界観のオトナ対応」に、とても時間がかかることになってしまったのではないか。
もう何度もいってきたように、自分が世界の中心ではない、ってか中心からちょっとずれたところから世界をみる、というところから、おるたな・ワールドがはじまる。自分が世界の中心であることがそんなに大事じゃなくなると、まちがいなく、世界はもっと平和になるはずだ。「わたし(のみ)がただしい」とおもってしまうからこそ、ぼくらはひとをころすし、そうおもわないと絶対にころせない。なのでおもわないところにいく、というのが「わたしのおるたな主義」ちゅうことですわ、enfin, bref...。
◇初出=『ふらんす』2016年3月号