第6回 はっきりものをいえないぼくたち、みたいな。
積極的に議論できる人間をそだてないといけないと大学などではいわれたりしているのに、この国では、小学校中学年ぐらいからはむしろ逆の教育、とはいえずとも、逆の雰囲気が粛々と醸成される。小学校低学年では、たしかにハイハイと率先して手をあげ発言していたのが、ある時期から、なんだかそれが急にしづらくなる。どうしてやめちゃったの ? とだれにきいてもまともなこたえはかえってこない。「そういう雰囲気になっていったから」というのが、おおかたのひとが共有できる感覚であろうか。「グローバル人材の育成」など、そんなわけで当然なかなかうまくはいかない。
「なにがなんでもこの法案10個いっぺんにとおすぞ、みたいな。」「それって要するにクーデター ? みたいな。」などの文末の「みたいな」の使用は、ワカモノの、はっきりしないもののいいかたとして批判されたり分析されたりする一方で、まさに上記のような「日本人の国民性」のなせるわざ、のようないいかたがされることもある。完全な意味内容からなる一文のおわりに、一呼吸おいて「みたいな」で発言をおえる。それによって、いわれたばかりのその内容、そういいきるつもりはなく、「それに似たようなことかもねといっているだけです」ということ、つまり、いったばかりのその内容の主張をよわめたり、それについての責任を回避する手段になる、ということだ。そしてこれはさらに「無責任社会日本」という国民性論議に拍車をかける。
しかし、この国のひとがどういう性格で、それによってどういう社会がつくられているのかはともかく、すくなくとも「みたいな」的表現は、別に日本語限定ではない。英語がよくできるひとは、会話に頻出する kind of... や like... の便利さをこころえているだろうし、フランス語にも同様の表現はあるのだ。(du) genre とまえおきして一呼吸、それから文をつづける、たとえばこんな感じのいいかた。
Genre je ne sais pas comment faire pour en fi nir avec ce type.
「あのオトコとどうすれば別れられるのかわかんない、みたいな。」つまり「どうすれば別れられるのかわかんない」といいきらず、そんなこといいたくなる感じ、というニュアンスが文頭の genre によってあらわれることになる。これだけみても、はっきりいいきるのをやめとく、というのは別に日本語独特の発想でもなんでもないのだということがわかるが、1ページものの連載はくるしい。この genre という語の意味との関連もふくめ、詳細は次号にご期待 !
◇初出=『ふらんす』2015年9月号