第5回 1938年8月号
1938年8月号
現在も発行されている新聞のなかではフランスで最も長い歴史を持つ、1826年創刊のフィガロ紙 Le Figaro をはじめ、往時は隆盛を誇ったタン紙 Le Temps(1861 -1942)、 アクシオン・フランセーズ紙 L’Action française(1908-44)、また現在ではあまり顧みられないエクセルシオール紙 Excelsior(1910-40)、マリアンヌ紙 Marianne(1932 -40)。さらに文芸紙ヌーヴェル・リテレール Les Nouvelles littéraires(1922-85)と文化紙コメディア Comoedia(1907 -44)…。1937年からの2年間『ふらんす』の表紙に用いられたデザインは、これらの新聞紙面で縁取った枠のなかに毎月違ったふらんすの情景(おそらくは絵葉書の複製だろう)をはめ込んだものである。創刊以来初となる写真を使用した表紙は、雑誌の時事性を強く印象づける。だが皮肉なことに、この時期はまさしく、それまで時代の動揺にも泰然自若としていた『ふらんす』が「時事性」へと取り込まれていく過程と重なる。
1933年、満洲国が認められないことを不服として日本は国際連盟を脱退した。列強諸国 ―― もちろんフランスも含まれる ―― との亀裂は深まり、国内では年を追うごとに「非常時」の緊張感が高まっていた。それでも1937年初頭の『ふらんす』は、いまだ超然たる態度を崩していない。「近年いつも新しい年を迎へるたびにさう思ふのだが、まるで非常時といふ掛声の手前何かそれに当るやうな事件を起さないと世間様に相済まないやうにでも思つてゐる人があるやうだ。それに引きかへ本誌が坦々と平和な歩みをつづけてゐるのはむしろ皮肉な感じさへするのであるが、着実に平凡に進むところに本誌の文化的報国の意義があると思ふ」(1937年1月号「編集後記」)。しかし同年7月の盧溝橋事件以降、日中が全面戦争に突入すると、『ふらんす』の「坦々と平和な歩み」にもたちまち軍靴の響きが混じることになる。
1937年10月号は、さながら日中戦争特集号とでも呼ぶべき内容である。陸軍航空本部長による談話「列強空軍拡充の趨勢(すうせい)と帝国航空国防の強化」の仏訳に続いて、フランスにおける日中戦争の報道2本が註釈付きで転載されている。そのうちイリュストラシオン誌 L’Illustrationの「河北の戦闘」は事件の推移を客観的に叙述したものであり、「上海悲劇の日」と題されたフィガロ紙の記事は、フランス租界が爆撃され多くの犠牲者が出たことを報じている。註釈は「搭載爆弾を誤つて租界に落下せしめたのは支那爆撃飛行隊である」点を強調することも忘れない。さらに中国の主要都市の仏語表記を示した「仏支対照支那地名集」が4ページにわたって掲載され、「仏支対照北支那方面要図」が綴込付録となっている。増頁による特別定価50銭も故なしとしない。当時の通常号は定価35銭であったが、1938年4月号からは「満・鮮・北・台・樺 外地定価39銭」と表示された。大日本帝国の版図の拡大により、『ふらんす』の販路も満洲、朝鮮、北支(中国北部)、台湾、樺太まで広がったのである。
一方、編集部員たちも臣民である以上、兵役の義務を果たさねばならなかった。1938年6月の編集後記は主幹の出征を伝えている。「本誌主幹田島清氏が上海駐屯日本軍司令部附となつて五月二十二日東京発出征された。本誌は留守を守る編集部員によつて益々強化を図ると共に第十一回の仏蘭西語夏期講習会も例年通り明治大学で開催する」。白水社の社員では、のちに社長となる中森季雄(1912-88)も1937年に招集され、まさしく「北支」で3年間を過ごしている。戦時色を濃くした『ふらんす』は彼らの手にも握られていたのだろうか。
もちろん『ふらんす』の誌面すべてに戦争の影響が及んだわけではない。闊達な辰野隆の随筆や、杉捷夫、渡辺一夫、河盛好蔵らによる語学記事・文化記事を読む読者は、しばし「非常時」を忘れたことだろう。過度な「時事性」を免れた普段通りの誌面こそが『ふらんす』の生命であることは、編集部も強く意識していた。1938年12月号の編集後記は、再び冷静さを取り戻したかの観がある。「事変下の一九三八年も愈々(いよいよ)余日いくばくも無くなつた。文化の一角を強化する義務をもつ銃後のわれわれは、海面の風波を静観しながら、海底の巨岩の如くどつしりと腰をすゑて悠々と語学研鑽の道を進まう」。
だが雑誌『ふらんす』も、またフランス本国も、一層大きくうねる時代の荒波にやがて飲みこまれてしまう。フランスがドイツの電撃的な侵攻によりあえなく降伏するのはこの1年半後、1940年6月のことである。
◇初出=『ふらんす』2015年8月号