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倉方健作「ふらんす90年」

第7回 1942年新年号・1943年新年号・1944年新年号

  
1942年新年号・1943年新年号・1944年新年号

 真珠湾奇襲による日米開戦後も『ふらんす』は刊行され続けた。早々に「敗戦国」となったフランスの言語と文化を扱う雑誌が、終戦前の最終号となる1944年11、12月合併号まで、3年の月日を持ちこたえたというのは驚きである。

 開戦から遡ること1年、1940年11月号の巻頭には「雑誌買切制度実施に就てお願ひ」が掲載されている。返本による「物資の無駄遣い」をなくすため、雑誌は書店で予約注文数のみ引き受けるよう指示したものだが、この「お願ひ」は戦局の悪化につれて厳格に適用されるようになった。「雑誌用紙が新年から四割減となつた為、減頁にするか部数を減らすかしなければならぬ情勢に迫られてゐるが、できるだけ頁の減少を最小限度にとどめて継続購読者の御期待に添ふやうに努力するつもりであるから、読者もなるべく予約購読をして頂くやうにお願ひする次第である」(1943年2月号編集後記)。「本誌は八月号より『予約制』となります。読者には最寄の書店に本誌の予約をねがひます。予約をして頂かないとお手に入らないことになりますので、この点お含みねがひます」(同年7月号編集後記)。

 この時期の各号の体裁を見れば、物資の欠乏は一目瞭然である。例年増ページで迎える1月号も1942年以降、62ページ、54ページ、36ページと年々薄くなっている。通常号のページ数も40、38、36と漸減する。これらは広告ページ等を除いたノンブル(ページ番号)の数字であり、実際の誌面はもう少し豊かであった。しかし、ついに1944年5月号からは広告頁もなくなり、『ふらんす』は表紙・裏表紙を含めてきっかり32ページになった。目次は表紙に、編集後記は裏表紙に印刷されている(本誌p.23参照)。紙の手触りは悪く、表紙の二色刷などは望むべくもない。

 また、1943年10月に公布された「在学徴集延期臨時特例」は『ふらんす』の読者層にも大きく関わるものであった。高等教育機関に在籍する文科系学生の徴兵猶予が撤廃され、学徒出陣の対象となったのである。学徒兵となった若者のなかには旧制高校や大学でフランス語を学ぶ学生たちも含まれていた。読者の大幅な減少は編集部も覚悟していたようだが、それ自体は杞憂に終わったらしい。「本年度にはいつてから学徒の出陣や勤労動員による出動がいよいよ強化されて来たのにも拘らず本誌の読者が、その数において変動がないところを見ると、学徒の代りに他の読者層が相当殖えたのではないかと想像される」(1944年7月号編集後記)。無論、すべての学徒兵たちが復員し、再び『ふらんす』を手に取ることができたわけではない。去ったまま帰らない読者たちも少なくなかっただろう。

 戦時体制下にフランス語を学ぶという行為は、「非国民」とは言われぬまでも、少なくとも当局が好むところではなかった。あからさまな理系偏重、文系軽視の施策は、1943年10月に閣議決定された「教育ニ関スル戦時非常措置方策」にも示されている。いわく、1944年度の文科の入学定員は概ね従前の3分の1以下とする。国立の文科系大学および専門学校は理科系への転換を図る。私立の文科系大学および専門学校には教育内容の整備改善や統合整理を促す…。これに先立つ1943年度からは、旧制高校のフランス語科も削減されていた。当時東京帝国大学助教授であった鈴木信太郎(1895-1970)は戦後、同僚の辰野隆(1888-1964)に関するエッセイのなかで、教育関係者たちの振る舞いを回想している。

 「軍部の鼻息を窺つてばかりゐた文部省は、英語と仏語とを敵性語学だとして莫迦莫迦しい弾圧を加へた。当時全国にあつた高等学校(現在の大学教養部)三十六校の中、フランス語を教へてゐたのは七校に過ぎなかつたが、その中の五校のフランス語を廃止して、一高と三高との二校のみとした。その時の高等学校長達は、恐らくこの処置が日本の知識を退化させることだと知つてゐたにも拘らず―知つてゐなければ阿呆である―それに対して唯々諾々として、軍部に阿諛した文部省に更に迎合して、高等学校長会議に於いて、フランス語を教へる学級を廃止することを決定してしまつた。それに対して会議に於いて反対論があつたやうな様子もない。この時、辰野君は直ちに筆を執つて『高等教育とフランス語』といふ論文を書いて帝大新聞に寄稿し、堂々と反対の論陣を張つた。[…]『知識の領域は単に枢軸国と反枢軸国とを問はず日進月歩であり、敵味方の区別なく研究すべきである』と其時・・言ひ得た辰野君に対して、僕は尊敬と信頼とを献げたことを昨日のやうに忘れない」(『小話風のフランス文学』河出書房、1955年)。

 「其時・・」の傍点は鈴木が付けたものである。平時であれば当前の道理をはっきり口にすることに、どれほどの勇気が必要であったか。『ふらんす』誌が生き抜いた戦中の3年間の空気を想像するのは容易なことではない。

◇初出=『ふらんす』2015年10月号

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著者略歴

  1. 倉方健作(くらかた・けんさく)

    東京理科大学他講師。19世紀仏文学。著書『カリカチュアでよむ19世紀末フランス人物事典』(共著)

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