第4回 1931年3月号
1931年3月号
1928年10月号から『ふらんす』として生まれ変わった雑誌は、その後数年間、誌面構成の試行錯誤を続けた。最初の試みは縦組ページの導入である。創刊以来本文は横書きで、表紙から見て左側を綴じていたが(つまり現在の『ふらんす』と同様である)、改題とともに10ページ前後の「和文欄」が設けられた。それまでの裏表紙が縦組ページの表紙となり、したがってこの時期の『ふらんす』は両開きの体裁である。「和文欄」は原文の引用が少ない評論等に充てられたが、縦書きでなくてはならない格別の理由もなく、1930年いっぱいで廃止となった。
記事のバランスにも苦心が見られる。端的には、永年の愛読者である中・上級者向けの雑誌とするか、それとも初学者への手ほどきを多くするかの問題である。何度かの調整の末に出た結論が1931年1月号の編集後記に見られる。「記事の程度は中級を第一にし、次に初級物に力を注ぎ、余力を上級の記事に向けるつもりである」。だが、新学期が始まる4月と夏期講習会後は、初めて雑誌を手にする読者に配慮する必要があった。「本誌は学校ではない。然し四月からは新しく仏蘭西語を始められる方が全国的には数千名を加へることでもあるしするからさういふ読者のために文字通りの仏蘭西語入門的な記事を二三挿入するつもりである」(1931年3月号)。「今月は初級向の記事に相当多くの場所を割いたつもりである。漸次殖えてゆく新しい読者の大部分が初学者の方であるらしいので、さういふ方の為の記事には特に注意を払つてゐるが、「むづかし過ぎる」といふ御小言が絶えないのはどうしたわけだらう」(1931年10月号)。これは現在にも通じる編集者の悩みのタネだろう。なお、当時はまだ表紙のデザインも連載記事も「年度」ではなく「年」を基準に考えられていた。現在のように誌面が4月に一新されるようになるのは戦後のことである。
大学・高等学校・専門学校のフランス語入試問題の掲載、フランスの新聞記事の転載、古今の文学作品の梗概など、読者のニーズを探るさまざまな新機軸のなかで、1931年の『ふらんす』の表紙を飾るのは、東郷青児(1897-1978)が描く肌も露な女性である。当時の東郷は、フランス仕込みの技法で絵を描く傍らデザインや装丁にもセンスを見せており、先端的「モボ・モガ」の象徴であった。白水社からはコクトー『怖るべき子供たち』の翻訳を1930年に出版し、これに併せて同年9月号の「和文欄」にも随筆を寄せている。表紙画もこうした社との縁で描かれたものだろう。
東郷訳の『怖るべき子供たち』は爆発的に売れた。だが『ふらんす』は、ブームを一歩引いて眺める冷静さも備えていた。文芸書や翻訳小説の広告を誌面に掲載することはなく、また東郷にエッセイの連載を依頼するようなこともない。この堅実さが『ふらんす』の真骨頂である。1930年12月号の編集後記はこう胸を張る。「本誌が混血児的近代ヂャアナリズムの渦から超然として、ささやかながらしつかりした歩みをつづけて来たのは、雑誌の性質上至極当り前のことではあるが、唯、不景気に喘ぐ現世相の飛ばつちりを毫もうけなかつたばかりでなく、むしろ極く僅かながらも漸次より好調の売行を示して来たことは、偏へに執筆者の方々と読者諸兄姉の御厚意の然らしむるところである」。時流に棹させば流されるのが常である。『怖るべき子供たち』出版の翌年、二匹目の泥鰌を狙った東郷訳のデコブラ『恋愛株式会社』は、社員総出で宣伝用のマッチを配るという派手な広告活動にもかかわらず失敗に終わった。その一方で『ふらんす』は「超然として」フランス語学習者たちと真摯に向き合い続けたのである。
ところで『怖るべき子供たち』を訳したのは本当に東郷自身なのだろうか。「ゴースト」の存在を疑う声は出版当時からあった。どうやらこれは石川湧(1906-76)が下訳をしたものらしい。生前明かされることはなかったが、没後刊行の『石川湧文集』(緑林社、1984)の年譜にその事実が記されている。このような噂が真面目で一本気な『ふらんす』編集陣の耳に入っていたのであれば、東郷との関係に深入りしなかったのもむべなるかな、である。
◇初出=『ふらんす』2015年7月号