第2回 1928年4月号
1928年4月号
現在の『ふらんす』が『ラ・スムーズ』と題されていたのは創刊から1928年9月号までの3年9カ月である。旧名称での最後の年は、創刊年と同様に「種蒔く女」のイラストが表紙を飾っている。
新雑誌を『ラ・スムーズ』と名付けて舵を取ったのは杉田義雄という人物であった。時は大正末期、フランスの香りを漂わせる雑誌の主幹と聞けば、洋行帰りの気鋭の文筆家か、あるいは目配りの利いた敏腕編集者の姿を思い浮かべるかもしれない。だが実像はどちらからもほど遠い。杉田の生年は慶応元年(1865年)、肩書きは学習院教授、つまるところ幕末生まれの一老学者である。
しかもその風貌は舶来の香気とはおよそ無縁だった。杉田との最初の出会いを、やがて彼の仕事を継ぐ田島清はこう回想している。「もう早や二昔にあまる。明治三十六年、夏の或る日、私は初て先生を訪問した。玄関に訪れると、奇妙な人が出て来た。縄のやうな帯で着物を身体にしばりつけ、両手を帯の間に突込んでゐる。而(しか)もその人が、私の顔をじろじろ見るばかりで、なんとも言はない。私は、杉田先生に会ひたいと言つた。さうすると、間の抜けるほど時間をおいて、その人は出し抜けに『私が杉田義雄……用があればおはいり』と言つた。当時はハイカラといふ言葉のはやり始めであつた。ハイカラといふものを目標にして仏蘭西語を学び始めた私は、斯道の大家を以て理想的のハイカラと考へてゐた。さういふ意味で杉田先生を見に行つた私は、その人を見て面食らつた。畏敬するといふことを覚えたのは此の時である」。
『ラ・スムーズ』創刊号の表紙には「Y. Sugita, rédacteur en chef」と堂々と書かれている。世間的な知名度は皆無だったが、第一人者として杉田の名は斯界に轟いており、とりわけ和文仏訳の技量は日本一との呼び声が高かった。長年にわたって通訳にも従事し、1899年に日本を訪れたフランスの画家フェリクス・レガメ(1844-1907)は、帰国後に出版した『日本素描紀行』(原題Japon)のなかで、杉田(文中では「S氏」)の温厚篤実な性格と言葉の正確さを賞賛している。
卓越した語学力は、すさまじいばかりの勉強量に支えられていた。読書をしたまま歩き、ぶつかったのが人であろうが電柱であろうが「どうも失礼しました」と言って目も上げずに道を続けたという逸話が残る。ラルース百科事典を暗記したとも噂された。いずれにせよ不断の努力の賜物である。なにしろ杉田はフランスに行ったことがなかったのだ。最初で最後の渡仏は50代半ばとなった1920年のことである。到着するなり目に入る植物の名をすべて口にしてフランス人を驚愕させたという。
だが杉田が『ラ・スムーズ』と過ごした時期は短い。1927年11月17日、創刊3周年を前に62歳で没している。1928年2月号は追悼号となり、親交のあった人々がさまざまな思い出を寄せている。前述したような逸話に混じって強調されるのは、故人の別の一面である。杉田は洗礼名をウジェーヌという、敬虔なカトリックだった。フランス行きの航路でも船室で祈りを欠かさず、寄港地で教会ばかり巡っては同行者を辟易とさせ、ヴァチカンの禁書目録に含まれていることを理由にルソーの『告白』を読まなかったという。さらに友人の井上源次郎はこう断言している。「同君は余り邦人に知られて居ない右傾的否寧ろ極右傾的type に属してゐた。言葉を換て言へばsentiments cléricaux, âme cléricale の所有者であつた。同君は共和政府を呪ひ、議会政治を呪つた」。
教会至上主義(clérical)の杉田にとって、フランスはあくまでも「カトリック教会の長女」であった。その言語と文化に心酔しながらも、政教分離の道を進むフランス共和国の体制にはついに馴染めなかったのだ。考えてみれば、フランスに関わる雑誌であるにも拘らず、『ラ・スムーズ』は創刊以来、表紙に一度も三色旗をはためかせなかった。貨幣や切手をモデルに「種蒔く女」を描きながら、その頭にフリジア帽を被せることもない。これらはいずれも共和制の象徴である。杉田の「âme cléricale」とは相容れなかったに違いない。
杉田義雄という個性的な篤学者が、現在まで続く雑誌『ふらんす』の原点にあった事実は忘れられている。さながら死して多くの実を結ぶ「一粒の麦」の譬え話である。あらためて創刊4年目の表紙に目を向ければ、「種蒔く女」の後ろには早くも顔を出した緑の芽が描かれている。愛児『ラ・スムーズ』を遺して逝った初代主幹への、敬意を込めたメッセージであろう。
◇初出=『ふらんす』2015年5月号