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倉方健作「にわとり語学書クロニクル」

第12回(最終回) 特殊辞書

 フランス語の文章を翻訳していて「専門用語」に行き当たることがある。手元の仏和辞典を調べればとりあえずの訳語は見つかる。だが馴染みがないだけに、日本語に置き換えてもなかなか不安が拭えない。本当にこの訳語で正しいのか? 専門家が読んで眉をひそめはしないだろうか? こうした場合、頼りになるのは専門分野に特化した辞書、「特殊辞書」である。

 その種の辞書のなかで最も読まれたのは料理関係のものだろう。なかでも『仏英和料理用語辞典』(初版 1962)は筆頭格である。山本直文(1890-1982)の該博な知識と語学力に裏打ちされたコンパクトな辞書は、全国のシェフ待望の書物であった。同書を調理場に持ち込みぼろぼろになるまで使った、という回想は数多い。そうした読者の期待に応えようという著者の意気込みは「改訂版」(1974)の前書きに鮮明である。「今日では、西洋料理業を職とする人々が全国では 40 万人ほどになり、この辞典も毎年 4000 部ないし 4500 部ほど売れるようになり、多くの人々に便宜を与えていることが明白になってきた。よい座右の本として多くの人々に喜ばれれば喜ばれるだけそれだけさらによい物にし、いっそうよりよい物にして、広く利用してもらうことが編著者としての責務でなければならない。これが愛顧に報いる道でもあり、編著者の使命でもある」。言に違わず、著者 90 歳の折に「三訂版」(1980)、没後にも日仏料理協会編『山本直文フランス料理用語辞典』(1995)が刊行された。現在その流れを継承している「特殊辞書」は日仏料理協会編の『仏和・和仏 料理フランス語辞典』(2008)と『新フランス料理用語辞典』(2009)、そして千石玲子・千石禎子・吉田菊次郎編『仏英独゠和[新]洋菓子辞典』(2012)である。いずれも料理人や菓子職人の使用を念頭に、メニュー作成のための英語の併記や発音のカナ表記など、一般の仏和辞書とは違う工夫が凝らされている。


『新フランス料理用語辞典』


 日仏理工科会編『仏和理工学辞典』(初版 1961)も息が長い。タイトルの変更がないまま半世紀を生きて、いまなお現役である。理工学の発展に果てがないように、この辞書は常に「未完」であることを運命付けられていた。初版の前書きにはこうある。「完璧なものを望むといつになっても完成しない。理工学の急激な進歩とともにどんどん用語が増してくるからである。そこで再版の際さらに落穂を拾ったり、また読者諸賢の御忠告によって訂正することにして、不満足ながらここに編集を終えることにした」。その言葉どおり「改訂増補版」(1964)以降も、進展し細分化されていく「理工学」の各分野の語彙をキャッチアップする作業が繰り返された。正確かつ最新の情報を得る難しさは「第三版」(1973)の前書きでも語られている。「Grand Larousse Encyclopédique(1960-1968)は常に本書の拠り所となった。ところがこの辞典においても、以前の版と現在の版とに文法上の性の表記の変更が少なからずあるのに驚いた。場合によってはフランスの大学の同僚に確かめる労を取った。字引を編集することがいかに至難であり気の長いものであるかを、今回もまた痛切に感じた次第である」。その後「三訂増補版」(1982)、「四訂版」(1989)を経て2005 年の「新版」に至るのだが、スタンスは半世紀前の初版から変わっていない。「ひたすらに完璧を追い求めてもよしないことであろう。とどまることを知らない現実の急流にすぐにかき消されてしまうからである。ある時点での公開を決意せざるをえない。[…]勿論、辞典の編纂に了りはない。こうしている間も社会は絶えず変化し続けている」。まさに辞書づくりとは、捕まえたかと思えばするりと手を逃れる、跳ね飛ぶ言葉の群れとの果てしない格闘なのだと思わされる。


『仏和理工学辞典』


 最後に、白水社がはじめて刊行した特殊辞書『仏和兵語辞典(改訂版)』(1926)にも触れておこう。著者ガストン・ルノンドー Gaston Renondeau(1879-1967)は最初は留学生、のち大使館付武官として、明治末期から昭和初期にかけて計 3 度、約 10年を日本で過ごした軍人である。最終階級は中将、戦後は太宰治、谷崎潤一郎、三島由紀夫など日本の現代文学を旺盛に仏訳紹介するなど、知日家として高名であった。本誌2017年1月号の「フランスと私」で渡邊守章氏が回想する、詩人ポール・クローデルの長男を紹介してくれた「ルノンドー氏」その人である。最初の特殊辞書にもかかわらず「改訂版」というのは一見奇妙だが、実は同書の「初版」は 1918 年に別の出版社、三才社から刊行されている。同社は森鷗外『青年』では主人公がユイスマンスの原書を買い求め、永井荷風『断腸亭日乗』でもたびたび言及されている、白水社よりも古いフランス語専門書店であった。渡辺一夫も随筆「ある横丁の幻」(1963)で「神田の一隅にあった駄菓子屋か小さな古本屋めいた」三才社を回想している。なぜ『仏和兵語辞典』の版元が白水社に移ったのかは現時点ではわからない。だが、1 冊の語学書の周囲を丹念に探れば、日仏文化交流に関する新事実が必ず見つかるに違いない。これが 1 年間の連載を通して得た確信である。

* * *

 独創的で面白く、少しクセがあるが、なにより役に立つ。そして数年後、数十年後に開いても新しい魅力がみつかる。そんな語学書がにわとりのマークとともに今後も刊行され続けることを期待したい。

◇初出=『ふらんす』2017年3月号

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著者略歴

  1. 倉方健作(くらかた・けんさく)

    東京理科大学他講師。19世紀仏文学。著書『カリカチュアでよむ19世紀末フランス人物事典』(共著)

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