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倉方健作「にわとり語学書クロニクル」

第6回 仏和辞典(戦後篇)

 仏和辞典に限らず、辞典の巻頭に置かれた文章には名文が多く、せっかく手元に辞典があるのならば読まずにおくのはもったいない。出版社を跨いだアンソロジーは出ないものか、と私は常々思っている。

 そのなかでも『仏和大辞典』(1981)の「序文」ほど闊達自在なものは珍しい。編者代表の伊吹武彦が出版に至る経緯を綴ったものだが、書き出しには短編小説の趣きがある。「この辞典の編集について、白水社からはじめてお話があったのは、昭和 32年 8 月 1 日のことである。京都・鴨川にのぞむある場所で、寺村五一専務、泉川彊編集長(いずれも当時の役職)が入洛され、私(伊吹)がお招きを受けて会談した。そのときのお話は、「画期的」な仏和大辞典を作ってほしいということであった。私はとにかく考えさせていただきたいとだけお答えした。辞典の編集はよほどの難事業であり、軽々しく受諾すべきではないと考えたからである」。


『仏和大辞典』

 『仏和大辞典』の計画は、もともとは戦前の『模範仏和大辞典』の大改訂に端を発している。同じく伊吹による随筆「辞典づくり裏ばなし」(『学鐙』78 巻 2 号、1981)によれば、彼のほか渡辺一夫、河盛好蔵、中島健蔵、川口篤、市原豊太、山田九郎が編集委員であったという。毎月印税の先渡しとして 5 円が送られ、仕事は順調に滑り出したものの戦争により頓挫、それが 1957 年に再開されたのである。あらためて編集委員への就任を打診した渡辺一夫にはラブレー研究での多忙を理由に断られるなどして、新たに 5 名の編者の顔ぶれが決まった。「この種の序文のなかで、次のようなことを書くのは恐らく異例であろうが、あえてお許しを得て一言申し添えたい。それは、われわれ 5 名の編者の集まりを、白水社側は「五碩会」と名付けたことである。仕事がまだ緒についたばかりなので、事が他に漏れるのを恐れてのことであった。しかしわれわれとしては、みずから「五碩」と名乗ることははばかられるので、とりあえず「半茶組」と称することになった。「半茶」とは、発足式が行なわれた京都の料亭の屋号である」。以降「半茶組」は、24 年近くを辞典の編集に捧げたのだった。

 『仏和大辞典』の特徴を一言であらわせば「各単語に対する tous azimuts(全方位的)なアプローチ」であると伊吹は書いている。「この『仏和大辞典』のフランス語名をDictionnaire général français-japonais とした。général という形容詞は、じつは、私が学校を出てフランス語の教師をはじめてから今日まで 50数年、いつも座右に置いて愛用している Hatzfeld と Darmesteter の Dictionnaire général de la langue française の題名にあやかったものであるが、端的にいえば、tous azimuts という形容詞句のもつ意味を薄め弱めたものにほかならない」。この辞典は 19 世紀に刊行された名辞典のひとつだが、実は戦後日本語辞典の権威となった岩波書店の『広辞苑』(1955 年初版)とも関係がある。新村出の「自序」によれば、『広辞苑』の前身となる『辞苑』の改訂に際して、次男の仏文学者・新村猛が「フランスの大辞典リットレないしラルース等の名著およびダルメステテール等の中辞典から平素得つつある智識を、他山の石として」父親に供したらしい。─余談になるが、現行の『広辞苑』によれば「他山の石」は、「本来、目上の人の言行について、また、手本となる言行の意では使わない」。つまり著者自身が「誤用」を犯していることになり、こうした発見こそ、辞典の巻頭文を読む醍醐味である。

 戦後に大きく姿を変えた辞典としては、1938 年初版の『新仏和中辞典』がある。1951 年に刊行された「増補版」では、旧版の前に 60 ページに及ぶ supplément が付いた。télévision「テレヴィジョン」、collaboration「対独協力」、existentialisme「実存主義」といった「新語」の登場は時代の流れを感じさせる。その後 1955 年に全面的な「改稿版」が刊行されたのち、1960 年には約 3300 語を増補、その後も数年に一度の改訂が 1980 年代まで続けられた。そして 1993 年には、後継となる『現代フランス語辞典』が刊行される。「今日ここにかつての『新仏和中辞典』は『現代フランス語辞典』として、装い、内容ともに一身した姿でお目見得することになりました。」「辞典、字引き類を親しく呼ぶさいの日常的なフランス語に « dico » という言葉がありますが、私たちの辞典も、正式な名称、『現代フランス語辞典 = Dictionnaire français-japonais』とならんで、「ル・ディコ = Le Dico」を略称としたいと思います」。略称は 2003 年の第 3 版から正式名称となり、これが現在の『ディコ仏和辞典』である。


『ディコ仏和辞典[新装版]』

 電子辞書や辞書アプリの普及によって、「書物」としての仏和辞典が「紙(かみ)辞書」と呼ばれるのを最近よく耳にする。電子辞書にも「序文」の類いが収められているのかどうか、私は知らない。そして「紙辞書」の行く末には自分自身の未来を重ねざるをえない。やがてフランス語教育の現場に、最新の文法知識を網羅し、発音が正確で、板書をけして誤らない人工知能が台頭する日が来れば、旧時代の遺物たる私は「人(ひと)教師」などと呼ばれてしまうのではないか。「紙辞書」もいいものですよ、と学生に勧めながら、そんなことを考えるのである。

◇初出=『ふらんす』2016年9月号

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著者略歴

  1. 倉方健作(くらかた・けんさく)

    東京理科大学他講師。19世紀仏文学。著書『カリカチュアでよむ19世紀末フランス人物事典』(共著)

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