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倉方健作「にわとり語学書クロニクル」

第2回 文法書

 2015 年11 月に『現代フランス広文典[改訂版]』が刊行された。白水社では現時点でもっとも新しい文法書だが、「文典」という呼び名はいささか古めかしい。一言で言えばカタい。しかもなんだか難しそうだ。もっとも、文法書は多少なりともカタくて難しいのが当たり前なのだから、その意味では正直な書名かもしれない。なにより「文典」と白水社とは、切っても切れない間柄なのである。


『実習仏蘭西文典』(改訂増補版、1932)

 1915 年の創業から3 年、白水社が初めて刊行したフランス語学習書のタイトルは『実習仏蘭西文典』(1918)である。著者の内藤濯(1883-1977)は、白水社を興した福岡易之助と高校・大学の同期であり、卒業の翌年から陸軍中央幼年学校の教壇に立っていた。日本人教師として初修者にフランス語を教えるうちに、内藤は実用的な文法書の必要性を痛感したという。「日本文で説かれた中級程度の仏蘭西文典で、実際の授業に使へる書物が欲しいと云ふ『仏蘭西学会』同人の要求もあり、著者自身もまた日々教室に莅のぞむ上に於いてさうした書物がなくては不都合になつた所から、過去約八年に亘つて実際の授業に試みた材料を整理し、それに多少の新材料を加へて一先ま づ編み上げたのが即ち此の一巻である」(はしがき)。文中の「仏蘭西学会」とは、内藤、福岡ら東大仏文卒業生の有志団体である。フランス語教育に携わる日本人がまだ数少なかった当時、日本語で書かれた良質な教科書・文法書の整備が喫緊の問題として共有されていたことがうかがわれる。

 『実習仏蘭西文典』のフランス語タイトルはNouveau Cours de grammaire française であり、「古い」文法書を刷新しようという意気込みも感じられる。それでは内藤以前の、つまり白水社以前の「文典」とはどのようなものだったのだろうか。一例として、松井知時『邦語仏蘭西文典』(東京博文館、1902)を見てみよう。著者は東大仏文最初の卒業生であり、約1 年のフランス滞在ののち同書を執筆したという。その内容は稀有壮大で、冒頭の「総論」は言語の成り立ちから説き明かす。「或一類のものが群をなして、互に意志を通ずる必要のある場合には、単純と複雑の相違はあるが、其に相応した一定の言語が生じて来るのである」。これではいかにも的が大きすぎる。肝心の文法の説明のほうは、フランスの文法学者の諸説を列挙したのちに著者が「我輩は…」と私見を示すスタイルが貫かれており、およそ読みやすい書物とは言い難い。ほかには、同じく東大仏文出身の折竹錫(たもう)による『詳細仏蘭西文典』(有朋堂、1916)もあった。文法事項は格段に整理されたが、全編いかめしい漢字カタカナ交じりで書かれ、体裁も教室で用いるにはやや浩瀚であった。そこに登場した内藤の『実習仏蘭西文典』は、説明も簡明で、授業での使用には向いていた。各章末には合計300 問にも及ぶ和文仏訳問題も付いており、これがなかなか難しい。「書物を四五冊仏蘭西から取寄せて貰ふ事にしておいた書店が昨夜の火事で焼けて了しまひました」「浅野内匠頭に仕へていた二三の家臣は主君の仇を報ずることを断念した」「軍艦生駒威風堂々として港内に入り来るや、埠頭に在りしもの皆万歳を繰返してこれを迎へたり」。嘗めるように「文典」を読んで時制や語法を確認しなければ、教室での解答はおぼつかないだろう。なお1932 年の再訂増補版では仏訳問題の大部分が差し替えられた。戦後の1949 年にも再版が刊行されている。


『仏蘭西広文典』

 『実習仏蘭西文典』から8 年後、目黒三郎・徳尾俊彦『仏蘭西広文典』(1926)が同じく白水社から刊行された。こちらは「広」と付くとおり、内容はより網羅的で、中級者を念頭に置いた書物であった。同書は1953 年に改訂され、さらに1966 年に『新フランス広文典』となったのち、2000 年に原著者の息子・目黒士門が新たに稿を起こして『現代フランス広文典』へと新生した。この改訂版が昨年出版されたことは、本稿の冒頭で言及したとおりである。『仏蘭西広文典』以来書名は変転し、構成も一新されたが、表紙に書かれたフランス語タイトルは常にGrammaire française complète である。最新版の帯にも「座右に一冊」「フランス文法のすべて」と書かれており、著者と出版社が「広文典」に込める思いは90 年間変わっていない。

 文法を詳解する文法書は不変のようでありながら、常に学習者の視線から改訂が続けられてきた。フランス語に興味を持ち、さらに詳しく学ぼうとする学習者には、やはり早めの入手を薦めたい。『現代フランス広文典[改訂版]』の「まえがき」にはこう書かれている。「外国語の教育が「実用」の見地から「聞く・話す」ことに重点をおくようになったことは、それなりに結構なことですが、逆に学校向けの教科書では文法がかなり簡略化され、必要な文法知識が十分に与えられていないのが実状であるようにも思われます」。だからこその「座右の一冊」である。改訂版の刊行直前に82 歳で亡くなった著者からのメッセージとして心に留めておきたい。



『現代フランス広文典[改訂版]』

 ◇初出=『ふらんす』2016年5月号

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著者略歴

  1. 倉方健作(くらかた・けんさく)

    東京理科大学他講師。19世紀仏文学。著書『カリカチュアでよむ19世紀末フランス人物事典』(共著)

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