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倉方健作「にわとり語学書クロニクル」

第3回 動詞の活用

 新年度からフランス語を始めた学習者は、2か月を経たいま、どんな感想を抱いているだろうか。思いもしなかった動詞の活用の多さと不規則性に「騙された」という顔をする学生が教壇から目につくのもこの時期である。こんなことなら中国語にしておけばよかったです、などと授業後に真顔で言われた日には「僕のせいじゃないんです」と呟きたくもなる。

 なんの慰めにもならないが、旧制高校のフランス語クラスでは、入学直後に問答無用で動詞の活用を叩き込まれた。評論家の中村光夫(1911-88)によれば、最初の授業で教師が avoir の変化を端から端まで読み上げ、次の時間までに暗記して来るように言ったという。「翌日までに何とか覚えて行くと、ひとりずつ立たせて、直説法半過去、接続法現在という風に暗唱させ、少しでも違うと、大声でどなられたり、ねちねち皮肉をいわれたりします。その調子で毎日ひとつかふたつの動詞の変化を覚えさせられたので、みな憑つ かれたようになってしまい、寄宿舎の風呂に浸りながらでもジュ・セ・チュ・セとくりかえすので、よその学科の生徒は変な顔をしていました」。このような授業をいま展開したらどうなることだろう。


『標準フランス語動詞変化表』

  これもなんの慰めにもならないが、動詞の活用はフランス人にとっても厄介で、「ベシュレル Beschrelle」に頼ったことのない人はまずいない。19 世紀の文法家ルイ=ニコラ・ベシュレル(1802-83)が刊行した動詞変化の早見表が、幾度もの改訂を経て今日に至っている。白水社が 1922 年に刊行した仏蘭西文学会編『仏蘭西語動詞変化の栞』も、構成からレイアウトまで「ベシュレル」を大いに参考にしていた。同書もベシュレルに劣らず息が長く、田島清による改訂版(1929)は戦後まで版を重ね、『標準フランス語動詞変化表』(1961)はいまも現役である。フランス語タイトルは一貫して L’Art de conjuguer les verbes だが、これはベースとなったベシュレルの L’Art de conjuguer(1860)の影響だろう。そういえば以前、明治時代の文法書に「配偶法」とあるのを見て一瞬なんのことかと思ったが、conjuguer の直訳であった。旧制高校生たちは動詞の「曲げ」と呼んでいたらしい。

 野口洪基『仏蘭西語不規則動詞逆引辞典』(1927)は、不規則動詞の変化形をアルファベ順に並べ、原形、法、時制、人称を示したものである。辞典を編んだ意図は「序」に詳しい。「規則的に仏語を専攻する人には、こんなものは不要かも知れぬ。然し世には仏語を速成し、早く仏語の本を読みたい、発音や文法には多く拘泥せず、兎に角早く仏文を解したいといふ人が沢山ある。之等の人々が必要に迫られて仏語の勉強を始めても、扨(さ)て不規則動詞にぶつかると、もううんざりして可惜(あたら)研究を擲(なげう)つ例を余は多々見てゐる」。著者は京大法学部出身で手形法に関する著書がある。専門書を原書で読まねばならない人々に接する機会が多かったのだろう。同書は戦前に 8 刷を重ね、1949 年にも再刊されている。少なからぬニーズがあったものらしい。


『フラ語動詞、こんなにわかっていいかしら?』


  今世紀に入ってからの語学書には、清岡智比古『フラ語動詞、こんなにわかっていいかしら?』がある。フランス語にルビが振られ、文体も語り口調という画期的な「フラ語」シリーズの第 1 弾だが、フランス語の動詞について「活用のパターンはたった 2 つ!」と頼もしく言い切っている。語尾が -er で終わる動詞を「活用 A グループ」、その他の語尾 -ir、-re、-oir で終わる動詞を「活用 B グループ」と分類しているのである。「活用なんて言うとむずかしそうですが、実際はたった 2 パターンだけなんですね。まあ、多少の例外はつきものですが……」。まず学習者の警戒を解いてから、「例外」を小出しにして丁寧に説明している。巻頭には動詞の活用形から検索できる索引もある。さらに 2015 年に刊行された同書の改訂版からは、重要動詞 40 の基本的な活用が収録された CD が付属している。「聞いていると、なんだか気持ちよくなってきます。録音してくれたレナさんの声もさることながら、やはりそれは、活用のリズムのなせる業でしょう。やっぱり、まずは音からです!」(「改訂にあたって」)。


『徹底整理フランス語 動詞のしくみ』


 高橋信良・久保田剛史『徹底整理フランス語 動詞のしくみ』(2015)も最近刊行された。動詞の活用と用法の「徹底整理」に加えて、巻末には重要動詞約 700 語と、不規則活用の逆引き索引が置かれている。付属の CD-ROM は基本動詞 55 の全活用パターンを収録している。接続法・条件法の過去形や、否定倒置形を耳から覚える機会はそう多くないため、貴重な音源である。

 やはり動詞の活用は、耳で聴いて、発音をして、その自分の声をまた聴くという円環運動によって定着していくものだと思う。憑かれたり疲れたりすることなく、湯船で鼻歌まじりに活用が口を突いて出るようならば、滑り出しもまず上々、といったところではないだろうか。

◇初出=『ふらんす』2016年6月号

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著者略歴

  1. 倉方健作(くらかた・けんさく)

    東京理科大学他講師。19世紀仏文学。著書『カリカチュアでよむ19世紀末フランス人物事典』(共著)

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