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倉方健作「にわとり語学書クロニクル」

第1回 発音

 昨年創業 100 年を迎えた白水社の歴史は、大正・昭和・平成を通じたフランス語学習の歴史でもある。内藤濯『実習仏蘭西文典』(1918)以来、関連書籍の総数は約500 冊にも及ぶ。ひとまず概説書、文法書、問題集などをひっくるめて「語学書」と呼ぶことにしよう。本連載「にわとり語学書クロニクル」では白水社の出版物を中心として、トピックごとに語学書の 1 世紀の変遷をたどっていく。もちろん「にわとり」とは、三歩歩めば動詞の活用を忘れてしまう私のような学習者の比喩ではなく、その傍らで常に付き添ってくれた白水社のシンボルマークである。第 1 回は発音に関する語学書を見てみたい。

* * *

 発音に特化した語学書は大正時代から存在していた。井上源次郎『組織的仏蘭西語発音法』(仏語研究社、1925)を見ると、日本語にない音を伝える当時の苦心がしのばれる。表記はカタカナを基本としながら自作の記号が多用されており、例えばは「エの鼻音とアの鼻音の中間を示す記号(私の勝手に作つた)である。[…]詳しく言へばエの量が多くアは少量である。だから e は大きく書き a は小文字を用ゐた」といった具合である。同様に語末の r は「r を全部発音せず半ば発音せよ」との意図からなる数学めいた記号が発明されている。その一方で、肝心の音の解説は明瞭とは言い難い。eu の綴りに対応するフランス語独特の音などは説明が半ば放棄され「此音は師に就かなければ修得する事は出来ない」とまで書かれている。さながら一子相伝の奥義である。

 このような苦労は、つまるところ共通の記号体系がないことに起因している。現在の発音記号が「万国音標文字」の呼び名で日本で普及しはじめたのは昭和の初めのことである。『ラ・スムーズ』(『ふらんす』の前身)1926 年 11 月号の読者質問欄に「仏英または仏仏辞典で一語づつ万国音標文字を用ひて、その発音を示した辞典はありませんか」という質問が見られるほか、1929 年 4 月号には鷲尾勲「仏語発音の学習と音標文字」という記事も掲載されている。このような時代背景を勘案すれば、白水社が刊行した目黒三郎『仏語の発音』(1927)は先進的である。全編に発音記号が用いられ、著者がソルボンヌ留学で得た知見も存分に注ぎ込まれている。さらに 10 年後の改訂版『仏語の発音と綴字』(1937)では、併記されていたカタカナ表記が削除されたほか、口の形も写真で示された。

 これらの語学書を時代に沿って眺めると、フランス語そのものの変化も浮かび上がる。『仏語の発音と綴字』の「はしがき」に「neuf enfantsを老人は と発音し、青年は と発音してゐる。本書は青年の発音を採用することにした」とあるのはその一例である。また r の発音についての記述の変遷は面白い。『組織的仏蘭西語発音法』には「bérammé と書いてフランス人に読ませたら神田児は会心のえみを洩すであらう」との記述があり、『仏語の発音』も同様に「東京地方の方言で〔ベランメー〕と巻舌で発せられる様なのは正に之である」と r の発音を説明している。つまり当時のフランスでの r の発音は「巻舌」が主流だったのである。『仏語の発音と綴字』でも巻舌が「標準仏語の r」とされており(舌の振動は 4 回が適当という)、うがいのような r は「田舎者の間に見出される r」(!)だという。これが戦後に刊行された松原秀治『フランス語発音の手引』(1952)になると同じ音が「大都市などでは専らこの音」と説明されており、田舎から都会へうがい音の進出が見てとれる。

 変化するのはフランス語の発音ばかりではない。『フランス語発音の手引』には「フランス語の g 音は語頭にあっても、語の内部にあっても、また語尾にあっても、みな日本語の語頭のガ行音と同様に発音し、決して鼻音で発音しないように注意しなければならぬ」と書かれている。日本語の鼻濁音がすっかり衰退した現在では、かえって読者を混乱させてしまう記述だろう。

 ところで r の発音は、実際どう練習したらいいのだろうか。語学書に特訓法は見つからなかったが、『ふらんす』1972 年 9 月号のインタビューに、r の発音がいいと褒められた留学経験者のこんな話があった。「家庭教師の先生がティ・スプーンに一ぱいの水を咽に入れて、うがいをゴロゴロとやって、もう少ししたら咽の奥のほうにはいるかはいらないところでラリルレロを言えというのを、そればかり 1 週間やられたのがよかったのじゃないかと思います」。想像するだに息苦しく、鼻に水が逆流する思いがする。ティ・スプーンでの練習に走る向きを止めはしないが、私としては、「発音のしくみ」を丁寧に解説した菊地歌子・山根祐佳『フランス語発音トレーニング』(2010)のほうをお薦めしたい。

◇初出=『ふらんす』2016年4月号

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著者略歴

  1. 倉方健作(くらかた・けんさく)

    東京理科大学他講師。19世紀仏文学。著書『カリカチュアでよむ19世紀末フランス人物事典』(共著)

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