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「父母会戦記:保育園がなくなる日」今仲希伊子

第二回 延長保育は父母会からはじまった

 児童とその保護者の権利として
 1947年に公布の児童福祉法は、憲法25条規定に基づき「児童が心身ともに健やかに生まれ、且つ、育成される」「すべての児童はひとしくその生活を保障」され、「国及び地方自治体は児童の保護者とともに児童を心身ともに健やかに育成する責任を負う」ことを明記され、保護者とともに児童の権利を保障する責任が国・地方自治体にあると規定した(大野光彦編著『児童福祉論』八千代出版、1998年)
 しかし、「保育所は国・自治体が保障すべき施設とされたが、設置数も少なく、戦前の託児所の救貧的性格を残し、とくに働く母親のための乳児保育施設はないに等しかった」(工水戸富士子「女性労働者の平等要求の発展」『日本女性生活史』第5巻、東京大学出版会、1990年)。
 児童福祉法の中で保育所は、「日日保護者の委託を受けて、その乳児又は幼児を保育することを目的とする施設」とされたが、保育時間は「1日につき8時間を原則」とされ、実質上夜間の時間帯の保育は行われなかった。
 児童福祉法制定当初の1948年には、保育所設置数は約1500カ所、利用児童数は約14万人と記録されている(山縣文治他編『家族・児童福祉』有斐閣、2002年、第8章参照)。
 ちなみに、2021年4月1日時点で、保育園は3万8666カ所、利用児童数は約274万人である。

 「かまど」と「まき」の保育園
 1950年、船橋市立中央保育園が第一号の公立保育所として開園した。
 1952年度の『船橋乃大観』によると、「中央保育園が設置されその受託申し込みが殺到し、中央保育園の現施設では申込に応じきれぬため、更に昭和27年5月には夏見保育園を新設した」とある。
 また、「農繁期における農家の労働負担軽減と農家世帯の子弟の健全な育成をはかるために簡易保育所を毎年農繁期に各所に開設し受託世帯に大いに喜ばれている」という記述もみられ、現在の「千葉都民」の受け皿としての保育とは大きく様相を異にしている。


当時の保育料は1ヵ月250円、給食費は100円、生活困窮者に対しては減免又は免除

 労働組合の記録にはこうある(船橋市役所職員労働組合福祉支部「船橋市役所職員労働組合・保育園連絡会のあゆみ」2019年)。

ユニセフから無料で脱脂粉乳が支給され給食開始、加熱は「かまど」に「まき」でおやつとスープ程度、昼食は弁当持参。

 戦後の日本では、食糧不足が顕著でGHQの主導により学校給食導入を進め、1946年には全国の児童を対象にした学校給食が始まった。
 1949 年の「保育所給食実施要綱」にもとづき保育所においても給食が始まるが、食材のかなりの部分はGHQからの救援物資の提供を受けることになる(岩崎美智子「「ララ」の記憶――戦後保育所に送られた救援物資と脱脂粉乳」『東京家政大学博物館紀要』第14号、2009年)。専門の栄養士が園内で育てた野菜などを給食として提供している現在からは想像ができない時代だ。
 児童福祉法制定当時、園児の様子はどうであったか。
 先に述べたように、保育園設置数は約1500カ所、利用児童数は約14万人であった。
 1948年12月に児童福祉施設最低基準(以下 「最低基準」)が公布された。職員の配置に関しては、乳児または満2歳未満の幼児はおおむね10人につき保母1人以上、満2歳以上の幼児はおおむね30人につき1人以上であった。
 この基準は、アメリカのワシントン州の児童福祉最低基準に依拠して作成されたものであり、戦後日本の実情にそぐわず、 1950年の調査では、全国の保育所の90.1%が最低基準に不合格であった(松本なるみ「戦後草創期の保育所――元保育所保母の語りを手がかりに」『文京学院大学人間学部研究紀要』第11巻第1号、2009年)

 増える公立保育所――救貧対策から労働力確保へ
 最低基準は全国的に遵守されていなかったがそれでも需要には追い付かず、保育所が設置されるまで待てない母親たちは、共同保育所を開設するなど自主的解決や保育所設置運動を展開し、保育所増設を求めていく。
 1955年に始まった「日本母親大会」や翌年からの「働く婦人の中央集会」などでも取り上げられ、63年には新日本婦人の会も「ポストの数ほど保育所を」のスローガンで運動を始めた。保育所増設運動は、保育内容の改善や充実を求める運動へも発展していく。
 児童福祉法制定とさまざまな保育所設置要求運動をきっかけにして、公立保育所建設が進められるようになった。東京では1951年、公立対私立の保育所比は3対7であったが、1955年の全国保育所数は公立4269、私立4123となり、逆転するほど公立保育所が増設された(矢野雅子「戦後日本の保育所制度の変遷――児童福祉法1997年改正までの軌跡を中心に」明治大学博士学位論文、2016年)。
 高度経済成長期に入ると、保育園の性格も大きく変わっていく。福祉政策としての救貧的なものから中高年女性の労働力確保へと転換するのだ。
 1954年の入所状況記録では、船橋市立中央保育園が定員60名に対して利用129名、市立夏見保育園が定員60名に対して利用127名、市立千鳥保育園が定員53名に対して95名となっており、定員を大幅に超過して受け入れていたことがわかる。昭和にも「待機児童」問題はあったのだ。このとき「公立」中心に問題が解決されていったということは特筆に値する。
 全国的な動向と同様に、船橋市においても保育園需要は大きく、定員の倍以上の入所実態があった。出産後も働き続ける女性労働者が増え、保育所に対するニーズが高まっていき保育所の設置とともに保育の充実が求められるようになる。

 父母会の歴史――延長(時間外)保育は親たちで
 船橋市の保育園父母会の歴史は、文字通り、よりよい保育環境を求める親たちの〈戦記〉だ。
 全国的に「団地」住まいが憧れのステータスとなった高度経済成長期。東京に近い船橋市は、都内へ通勤する核家族・共働き世帯が増えているにもかかわらず、当時の市内の保育園は3歳以上を対象(1963年から1歳以上3歳未満児の受け入れへと拡大)とし、午前8時30分から午後4時の開所時間では母親が働けないという状況にあった。
 社会学者の山縣文治は、このような状況について「社会が必要とする程度の労働力」であり、決して女性の自立あるいは権利保障としての就労ではなかった、と指摘している(前掲『家族・児童福祉』)。全国的にみても、公立保育所を中心に整備されたとはいえ、あくまで対象は3歳以上が中心であり、保育時間も8時間が原則だった。
 最低限の整備であったため、都内へ通勤する船橋市民にとって働き続けるには不十分だった。
 1964年、前原地区の市立二宮保育園(63年開園)において、有志の父母たちが保育室1室を借り、父母会運営による時間外保育を始めている。これが船橋市公立保育園の父母会の原点といえる。同年、父母会から午前7時から午後7時まで開所を求める陳情書が提出された。
 翌65年、高根台地区に市立高根台保育園が開園。開園と同時に高根台保育園でも父母会運営による時間外保育が始まっている。二宮保育園と高根台保育園は、両園とも新京成線沿線で団地近くに位置し、同じ境遇で悩みを抱える各園父母同士の情報交換や連携も取りやすかったのだろう。
 こうして生まれたのが、私が関わることになる船橋市公立保育園父母会連絡会である。
 政治学者・原武史の著書『団地の空間政治学』(NHKブックス、2012年)で活写された革新の街がそこにはあったのだ。
 1967年、市は二宮保育園・高根台保育園・若葉保育園(66年開園)で延長保育を試行し、翌年(68年)に朝・夕2時間の延長保育は市の事業として継承された。この年は署名・カンパなどの連絡会の活動も活発で、こうした活動が実を結んだことがうかがえる。

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著者略歴

  1. 今仲希伊子(いまなか・きいこ)

    1980年生まれ。京都女子大学大学院現代社会学科公共圏創成専攻修了。船橋市立金杉台保育園父母会役員、船橋市公立保育園父母会連絡会会長、船橋市子ども・子育て会議委員などを経て、2019年から船橋市議。

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