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中村隆夫「19世紀のオカルティストたち」

第12回(最終回) 薔薇十字展とペラダンの盛衰

 19世紀フランスでオカルティスム、象徴主義、デカダンの文学と美術を総合した最大の立役者と言えば、既に何度か登場したジョゼファン・ペラダン以外にはいない。彼の活動で最も注目されるべきものは、彼の膨大な著作ももちろんだが、時代に与えた影響から言えば薔薇十字展である。これは1892年、93年、94年、95年、96年、97年と毎年開かれた。なかでも第1回展は大成功を博し、その衝撃は特に強かった。

 時代の潮流にも乗っていた。1880年代の美術や文学は1900年までにヨーロッパ、ロシア、アメリカにまで伝播していったし、1886年には詩人のジャン・モレアス(1856-1910)が『フィガロ・リテレール』に「象徴主義宣言」を発表し、その基本理念を述べ、先駆者にボードレール、マラルメ、ヴェルレーヌ、ランボーの名前を挙げた。さらにバルザックは、彼が「北方のブッダ」と呼んだ神秘主義者スウェーデンボリ(1688-1772)の影響を受けた画家たちは、「芸術における神秘家」となることを目指していたと書いた。また美術史家のルイ=ユジェーヌ・オートクールが指摘したように、彼らはオカルティスムに熱中し、ラファエル前派のメランコリーに惹かれ、視覚的世界の背後にある隠された真実を追求したのである。

 こうしたなかでペラダンは1890年5月「聖杯聖堂のカトリック薔薇十字団」を設立し、西洋を頽廃から救うために美術という魔術が必要だと考え、カトリック、オカルティスム、デカダン、象徴主義が混ぜ合わさった内容を特徴とする薔薇十字展として結実したのだった。彼こそは19世紀末の文学と美術の流れを総合する時代の象徴的存在だった。

 薔薇十字団の機関誌Les Petites Affichesの1891年8月23日号で、ペラダンは薔薇十字展の予告として「美を賞賛し理想を照らす美術展」について書いている。署名者はペラダン、フランスの薔薇十字運動改革の推進者で画家のアントワーヌ・ド・ラ・ロシュフーコー伯爵(1862-1959)、詩人、小説家、戯曲家のレオンス・ド・ラルマンディ(1851-1921)、ジャーナリスト、作家のガリー・ド・ラクロズ(1865-死亡年不詳)と小説『神々の黄昏』の著者のエレミール・ブールジュ(1852-1925)だった。さらにペラダンは1891年9月2日付のフィガロ紙に「薔薇十字宣言」を書き、すべての芸術家たちに作品を応募するように呼びかけた。

 作家の選考委員はペラダンはじめ上述した署名者たちだった。第1回展は、パリのデュラン=リュエル画廊で1892年3月10日から4月10日まで開かれた。9日は招待客だけで、3月11日付のフィガロ紙によれば1000人以上の人が殺到し、3月10日は芸術家、社交人、聖職者他一般の人々が訪れた。同じ日付のフィガロによれば、警察が交通整理のため出動するほどの盛況ぶりだったとのことである。ラルマンディによれば、数えた馬車の数は264台を超え、握手した人は900人、また10日の夕方には来客の置いていった名刺は22,600枚にものぼった。

 9日、10日ともスーツ姿のヴェルレーヌがアレクサンドル・セオン(1855-1917)の制作した自分の肖像画、スイスの彫刻家ニーデルハイゼン=ロド(1863-1913)の肖像彫刻、ヴァロットン(1865-1925)の版画による肖像画をしげしげと眺めた。9日のヴェルニサージュにはモロー、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ、そしてペラダンが唾棄すべきものと考えていた自然主義小説の騎手エミール・ゾラまでもが顔を見せた。他には、ユイスマンス(1848-1907)の『さかしま』のデ・ゼッセント、プルースト(1871-1922)の『失われた時を求めて』のシャルリュス男爵のモデルであり、象徴主義の詩人でモローをこよなく愛する耽美主義者でダンディズムの体現者であるロベール・ド・モンテスキュー(1855-1921)の姿も見られた。

 最後の薔薇十字展は1897年3月5日から31日まで、パリのジョルジュ=プティ画廊で開かれた。5日は191人のコラムニストや美術批評家たちが招待された。翌日には15,000人の礼讃者、美術通、野次馬たちが訪れた。第1回展からずっと成功を収めていたのにも拘わらず、第6回展のヴェルニサージュの演説で、ペラダンは突然「聖杯聖堂のカトリック薔薇十字団」の活動の停止を宣言した。取り巻きたちにも寝耳に水だった。だが決して短絡的な思いつきではなかった。第1回展の最中からペラダンとド・ラ・ロシュフーコー伯爵との関係がぎくしゃくしていることを、フィガロ紙は報じていた。伯爵は単なる選考委員だけではなく、会場費用や夜会のためのペラダンの戯曲の上演の費用などを工面してくれていた。しかし印象派贔屓(びいき)の伯爵とそれを嫌悪するペラダンとは意見が合うはずもなかった。2回展から伯爵が離れていったことは、運営面にとって大きな打撃だった。またペラダンが熱望していたモローとピュヴィス・ド・シャヴァンヌが一度も出品してくれなかったことは、最初から大きな痛手だった。ペラダンは演説で「ラテンの芸術家たちは理想というものにまったく無関心であり、優れた芸術家たちも自分の作品にしか興味がない」、「彼らはフィレンツ派の巨匠の域に達することはない」と語った。

 どう見ても敗北宣言である。期せずしてモローもピュヴィス・ド・シャヴァンヌも1898年に世を去った。ペラダンは1918年まで生きるが、もう時代の波ははるか遠くに引いてしまっていた。

◇初出=『ふらんす』2017年3月号

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著者略歴

  1. 中村隆夫(なかむら・たかお)

    多摩美術大学教授。訳書カバンヌ『ピカソの世紀』『続・ピカソの世紀』

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