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中村隆夫「19世紀のオカルティストたち」

第4回 ヴィクトル・ユゴー

 1830年の『エルナニ』上演でロマン主義を勝利へ導き、『レ・ミゼラブル』では人道主義、博愛主義を唱えたヴィクトル・ユゴー(1802 -1885)は、詩、小説、劇、紀行などあらゆる文学ジャンルを手がけ、また政治にも深く関わり、ナポレオン3世のクーデタを批判して1851年から30年も亡命生活を送ったこともあった。そんな彼の1881年の誕生日にはパリの民衆が家の前に祝福のための列をなし、彼の死に際しては国葬が執り行われ、柩は約200万人の人々に見送られてパンテオンに移された。そんなユゴーは実はオカルティスムと深い関係を持っていた。

 ユゴーのオカルティスムと言えば降霊術が挙げられる。ジャージー島に亡命していた1853年9月6日のことである。30年来の付き合いのジラルダン夫人が彼の亡命先の家「マリー・テラス」を訪れ数日間滞在した。彼女は新聞王エミール・ド・ジラルダンの妻であり、若い頃から社交界の華として知られ、また「シャルル・ド・ローネー子爵」という男性名で文化、社会、政治などにわたる時評を新聞に連載していた才女であり、また「ロマン主義のミューズ」としてジョルジュ・サンドと並び称された。ユゴーに降霊術を伝授したのがこのジラルダン夫人だった。

 彼女によるとテーブルは単にくるくると回るだけではなく、テーブルがこつこつと叩く音はアルファベットを示し、1回なら「A」、2回なら「B」というように書き留めれば、それらが単語になり文章にもなるというのだった。ユゴーと家族は早速試してみたがうまく反応しなかった。四角いテーブルを使っていたのが原因で、丸テーブルでなければならないということで、ジラルダン夫人が後日それを持って来た。9月11日にはユゴーの死んだ娘レオポルディーヌが現れ、それ以後彼はすっかり夢中になってしまった。

 彼はモリエール、ラシーヌ、シェイクスピアといった作家たちだけではなく、マホメット、キリスト、ルターらと交信したという記録がある。その原理がいまひとつ私には十分には理解できていないのだが、「話すテーブル」は絵を描いたり、ピアノを弾いたりもしたようだ。ユゴーの降霊術は1855年まで続くが、これに関してはユゴーが考えていたことがテーブルの言葉として出てきたのに過ぎないと否定的な立場を取る研究者もいるが、彼が亡命時代に神秘的な考えを深めていったことは事実で、この時期の彼の作品『静観詩集』、『諸世紀の伝説』などに降霊術に関わったことの影響が出ているとする研究者もいる。

 ここで辻昶の『ヴィクトル・ユゴーの生涯』に従って、ユゴーの神秘的な哲学がどんなものだったのかを簡単に述べておこう。①神は世界を不完全なものとして創造した。そうでなければ神自身を再製してしまうことになる。②宇宙のすべてのものは、それが保有している精神性の量に応じて階級が定められている。人間は神を頂点とするこの階級の真ん中に存在しており、それよりも下位に動物が位置づけられ、その下に植物、さらに下には石が存在している。生物・無生物の区別なくすべては生き、感じ、考える力を備えている。③万物は自分の犯した罪のために苦しんでいるが、その苦悩によって罪は償われ階級を上っていくことになる。最終的にはこの世の悪は神によって代表される善と融合し同化していく。ユゴーにとってこうした考えが真の宗教であり、それを実行できる宗教は存在しないという理由から、1881年8月31日の遺書には「私は教会での祈りはすべて拒絶する。すべての人々の魂のために祈ってもらいたい」と書いている。

 ユゴーとオカルティスムとの関わりはジャージー島での降霊術によって始まったと言えるが、それ以前から神秘主義的な考えを抱いていた。彼が霊魂の不滅を信じるようになったのは1844年頃からと言われ、ジャーナリストで作家のアレクサンドル・ヴェイユ(1811 -1899)を通じて神秘主義に関する知識を得ていた。彼がジェラール・ド・ネルヴァルの勧めでパリに出て来たのは1837年だった。しかしそれ以前からユゴーが神秘主義に対する知識を得ていたことは確かである。

 その例として『ノートル=ダム・ド・パリ』(1831)を挙げておこう。せむし男カジモドの育ての親であるノートル=ダム寺院の司教補佐クロード・フロロは学問を愛しており、博学になるに従って聖職者としては厳しく、人間としては悲しげになってきた。そうした彼の知識欲の深さを、ユゴーは「自分のしっぽをつかんでいる蛇」という象徴で表現している。これは前号に登場したウロボロスのことである。フロロは「……洞窟の中で錬金術師や占星術師たちが集まる、あの神秘なテーブルにすわるようになった」(辻昶、松下和則訳)。そして「(パリの)エクリヴァン通りとマリヴォー通りとの角に建っている小さな家へこっそり入っていく(フロロの)姿を人びとがよくみかけた」(同書)。この家とはパリの出版業者で錬金術にも関係し、黄金変成や、賢者の石の製造に成功したニコラ・フラメル(1330 -1418)の家で、そこの地下室に化金石を埋めていたと伝えられている。

 今でもこの家はパリのモンモランシー通り51番地に建っており、現在はAuberge Nicolas Flamelになっている。1階のレストランは誰でも気軽に入ることができる。

◇初出=『ふらんす』2016年7月号

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著者略歴

  1. 中村隆夫(なかむら・たかお)

    多摩美術大学教授。訳書カバンヌ『ピカソの世紀』『続・ピカソの世紀』

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