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中村隆夫「19世紀のオカルティストたち」

第8回 もうひとつの薔薇戦争

 「薔薇戦争la guerre des deux roses」が勃発した。といっても1455年から85年にかけてイギリスで起きた、赤い薔薇を記章とするランカスター家と白い薔薇を記章とするヨーク家の王位争奪の内乱のことではない。ではいったい何が起きたのか。19世紀末の話題に事欠くようになった時期に、既に紹介したジョゼファン・ペラダンとスタニスラス・ド・ガイタの仲違いをジャーナリズムが面白おかしく「薔薇戦争」と呼んで喧伝したのだった。事の発端は1888年ペラダン、ガイタらが結成した「薔薇十字カバラ団」を何の予告もなしにペラダンが脱退し、1900年に「カトリック聖堂聖杯の薔薇十字団」を結成したことだった。

 ガイタは2歳上のペラダンの本を読んで感動し、ペラダンから神秘主義の指導を受けた。ペラダンには1885年に41歳で早世した14歳年上の兄アドリアンがいた。ペラダンにとってこの兄は神秘主義の師であり、彼はトゥールーズで1850年に設立された薔薇十字団に関わっていた。

 トゥールーズには神秘主義の伝統があった。代表的な神秘主義者の名前を挙げれば、17世紀の錬金術師で医学に励んだピエール=ジャン・ファーブル(1588-1658)、18世紀にはドム・ペルネティ(1716-1796)らがおり、錬金術を重要な学問とする秘密結社が幾つも結成されてきた。また広くミディ・ピレネー地方一帯は、善神悪神の二元論の立場からこの世は悪神に属し、現世は否定すべきもの、そのために禁欲的苦行を課するという、キリスト教の異端であるカタリ派が盛んだった。特にアルビが中心だったため、カタリ派はアルビジョワ派と呼ばれる。

 さて、このトゥールーズで結成された「薔薇十字団」に関しては充分な情報が残されていない。12人の終身会員がいたが、ほとんど結社としての体を成していなかった。重要なメンバーのひとりフィルナン・ボワッサン(1835-1893)が書いたと思われる記事に、「カトリック薔薇十字団」という署名が見られる。彼はペラダンとガイタの秘儀参入を行ったと目されている。ペラダンに関しては間違いはないが、ガイタに関してはペラダン自身が行ったという説もある。この団体の基本にはカトリック、錬金術、ヘルメス医学があり、団体の目的は不遇な人たちに救いの手をさしのべることだった。これはほとんどすべての薔薇十字という名を冠する結社に共通する。

 カトリック教会側からすれば、トゥールーズのこの結社にははなはだいかがわしいものがあった。政治的理想は王党派、そして教会への忠誠という面ではなんの疑いもなかった。大きな問題なのは、神と人とを繫ぐ媒介者である教会にグノーシス派の息吹を吹き込むことによって、教会に新たな力を与える必要があると考えていたことにある。研究者によって見解は異なるが、トゥールーズの伝統を鑑みるならば、カタリ派的要素が濃厚なのではと考えることもできる。

 アドリアンが世を去ると、トゥールーズの結社の維持と改革の任に携わったのがボワッサンだった。彼は10冊ほどの本を世に出し、トゥールーズの文学アカデミー「ジュ・フローラル」の会員で、ペラダンの『至高の悪徳』に序文を書いたバルベー・ドールヴィイ(1808 -1889)のいるパリの文学界にも頻繁に顔を出していた。ボワッサンの尽力にもかかわらずこの結社は衰退していった。この頃の事情についてペラダンは次のように回想している。

 「3年前の、新しい土台の上に協会を刷新し強固なものにしようと、厳格な伝統を守るふたりの直系の後継者が決心したときには、薔薇十字のこの組織はまさに風前の灯だった。オカルトの12人評議会が組織された。6人の一段下位の幹部たちを急いで決めなければならなかった。外堀は固まり、心機一転した組織には生命が循環するようになった」。しかし12人のうち6人はペラダン、ガイタ、パピュスらであると名前を明記することができるが、残りの6人に関しては詳細は不明である。

 この結社はトゥールーズからパリへと移り、1888年に「薔薇十字カバラ団」となって生まれ変わった。ボワッサンの死後、流れからすればペラダンがグランメートル(最高責任者)の地位に就くのが当然だったように思われる。だが実際にグランメートルになったのはガイタだった。教会から信仰上のことで進言があっても無視をしようとするガイタ一派、すなわち6人の評議委員のパピュス、ポール・アダンらは明確に反カトリック的姿勢を示していた。ガイタ自身も反教会的でヘブライ的、カバラ的な色彩が濃厚だった。

 ペラダンはカトリックの擁護者、ヴァチカンへの忠誠を日頃から公言しており、またカトリック的立場は父、兄から受け継がれたペラダン家の伝統でもあった。彼の基本にはカトリックと魔術の融合という理想があったりと、ペラダン自身にも異端的要素は多分にあった。ペラダンとガイタの個人的な感情のもつれもあったが、カトリックに対する基本的な考えそのものが最初から異なっていた。その確執が世間の目に表面化したのが、あの「カトリック聖堂聖杯の薔薇十字団」の結成だったのである。

 晩年に陰りが見えたのは確かだが、ペラダンの影響はその死の1918年まで続いた。ガイタは1897年に36歳の若さであっけなく死んでしまい、彼の影響はほぼこの時点で終わってしまったようだ。それはそうと、ガイタの死にまつわるエピソードがある。ユイスマンスとの呪い合戦である。次回、ユイスマンスについて語る際にこのエピソードについても言及したい。

◇初出=2016年11月号

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著者略歴

  1. 中村隆夫(なかむら・たかお)

    多摩美術大学教授。訳書カバンヌ『ピカソの世紀』『続・ピカソの世紀』

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