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中村隆夫「19世紀のオカルティストたち」

第10回 ペラダンとサティ

 好んで東洋風の長い繻子(しゅす)のマントを羽織り、ぼさぼさの豊かな真っ黒な髪に髭を長く蓄えた風貌は、ペラダンが神秘的な雰囲気をかもし出すことに一役買っていた。敵対関係にあったユイスマンスは、「髭と髪の毛、これがペラダンの威光のすべてである」と痛烈な批判を浴びせている。魔術と呪いの達人とも言われるペラダンは、「薔薇十字カバラ団」の最高評議会に名を連ねるとともに、美術部長をも務めていた。

 ペラダンにはさまざまな肩書きがあるが、美術評論家もそのひとつである。かねてから総合芸術の実践の必要性を感じていた彼は、神秘主義を総合的に実践する方法として展覧会を開催することに思い至った。彼が1890年5月に設立した「聖堂聖杯のカトリック薔薇十団」の活動で重要な役割を担ったのが「薔薇十字展」で、1892年から1898年まで6回開催された。

 第1回展はパリのデュラン=リュエル画廊で3月10日から始まった。初日だけでも11,000人の入場者が訪れ大成功だった。ペラダンは第1回展の開催に際し「薔薇十字の夕べ」を催し、出席者にパンフレットを配付した。そこには「芸術家よ、そなたは聖職者である」、「芸術家よ、そなたは魔術師である」と書かれ、ペラダンの神秘主義の実践と普及のためにこの展覧会がいかに重要であったかがわかる。

 ファンファーレが鳴り響くなか、仰々しい姿でペラダンが登場し、もったいぶった口調で長広舌をふるった。このファンファーレを作曲したのはエリック・サティ(1866-1925)である。彼はペラダンの薔薇十字団の公認作曲家、聖歌隊長だった。サティはモンマルトルの伝説的キャバレー「シャ・ノワール」でピアノ弾きをし、その後は1917年のバレエ・リュスの『パラード』で、原作者のジャン・コクトー(1889-1963)に音楽を依頼されている。ちなみに美術担当はピカソ(1881-1973)だった。サティは「ジムノペディ」、「グノシエンヌ」など数々の曲で知られているが、その頃はまったくの無名な時代だった。

 サティと言えば鼻眼鏡、コウモリ傘、山高帽、寸詰まりの上衣、短すぎるズボン、埃だらけのゲートルがトレードマークだった。自らの描写するところによれば、濃い栗色の髪と髭、灰色の目をした身長167センチ、厭人癖、心気症、人類のなかで最も憂鬱な男である彼は、多くの挫折感を味わい、懐疑主義に陥り、人間嫌いであった。彼の有名な言葉に「人間を知れば知るほど、私は犬が好きになる」というのがある。

 彼の貧困と孤独に関して、こんなエピソードがある。サティは晩年をパリ郊外のアルクイユで過ごしたが、その住居には27年ものあいだ誰ひとり訪れる者がなく、死後発見されたのは、不透明になった窓ガラス、蜘蛛の巣、ピアノの壊れた蓋の下に隠された紙くずや、その他の山のようなゴミや虫だった。またこんなこともあった。サティが古い葉巻の箱に大きな切手大に紙を切り、インクで縁取りしたものが数百枚も見つかった。そこには標語や奇妙な言葉が書かれていた。生涯独身で通した女性嫌いのサティが、ひとりで丹念にこんな作業を行っていたというのも、彼という人を知る上で重要な材料であろう。また彼のためにある会が催されたが、礼服が買えなかったため出席を見合わせたということもあった。

 「シャ・ノワール」のピアノ弾きの頃、サティは作家のアルフォンス・アレー(1854-1905)からエゾテリック・サティ(秘教的なサティ)と渾名された。サティが実際にどんなことをしていたのかは詳らかではないが、彼の『記憶喪失者の回想録Mémoires d’un amnésique』には「その頃、私は錬金術に取り組んでいた」と書かれいる。だが、具体的なことはなにもわからない。こんなサティとペラダンが一緒になったのだから、世間はたいそう面白がったに違いない。薔薇十字展は盛況で満足すべき結果だった。だが、ペラダンにとって残念なことがあった。それは彼が強く出品を望んでいたモロー(1826-1898)、ルドン(1840-1916)、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ(1824-1898)が参加しなかったことである。その理由はペラダンの奇抜な服装と言説を煙たがっていたからだと推測される。

 第1回展の会期中にペラダン原作による『星たちの息子』が上演された。そのための曲を作曲したのもサティだった。しかし二人の蜜月時代は短かかった。1892年8月14日の「ジル・ブラース」紙で、サティはペラダンへの決別を宣言しているのである。冒頭には「私の芸術の他にはいかなる考えも持たない哀れな男である私が、ジョゼファン・ペラダン氏の信者諸賢の音楽的秘法伝授者なる肩書きがつきまとうのは、はなはだ心外である」と書かれている。全文を読めば喧嘩別れではなく、芸術におけるサティの独立心の表れだったことが理解できる。そして彼は1892年8月に「導きのイエスの芸術的メトロポリタン大司教教会」なるものを設立した。本部修道院はモンマルトルの彼の自宅で、開祖は彼自身、信者は彼ひとりだけだった。戒律は厳しく、女人禁制は鉄則だった。

 音楽評論家のアンヌ・レエによれば、世にある頽廃を絵に描いたような見本として、サティはペラダンの影響を穏便なかたちで実践したと指摘している。そのことはともかくも、この二人の強い個性がパリで出会ったことは、何ともドラマチックですばらしい歴史の1コマだったと言えないだろうか。

◇初出=『ふらんす』2017年1月号

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著者略歴

  1. 中村隆夫(なかむら・たかお)

    多摩美術大学教授。訳書カバンヌ『ピカソの世紀』『続・ピカソの世紀』

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