第5回 ネルヴァル 幻視者の数奇なる生と死
ジェラール・ド・ネルヴァル(1808-1855)は奇行で知られている。晩年ザリガリに紐をつけてパリの街を散歩していたというのだ。それが月夜の晩に行われたとも言われている。これはどうやら彼の死後に作られた話のようである。奇行を期待している読者を裏切ってしまったようであるが、彼の実人生を知ればこんな散歩など大したことないと思うこと請けあいである。
1841年2月のある日の夜、ネルヴァルが帰宅のためパリのノートル=ダム=ド=ロレット街34番地を歩いていると、まだ若い青白い顔の目がくぼんだ女性がその家の入り口に立っていた。ネルヴァルは「これは死の女神だ」「世界が終わろうとしている」と思った。家に着くと彼は3日間眠り続けた。眠りの最中に黒衣のひとりの女性がベッドの前に姿を現し、眼窩からダイヤのように輝く涙を流していた。彼はそれを亡くなった母だと思った。2歳のときに母親を失い、それが作品のなかでは恋人だった女優のジェニー・コロン、シバ神、小説のタイトルにもなったオーレリア、『シルヴィー』中では偶然により僅か数時間だけ会っただけの女性アドリエンヌと重なる。それは現実の女性であり、記憶のなかの女性であり、神話の女性であったりと、さまざまに変容し重なり合う。
同年の2月21日の夜、友人と音楽や数の意味や色彩について語った後、なぜか「オリエント」へ行のだという考えが脳裏をよぎった。よく知っていると思ったひとつの「星」が、彼の運命にある影響力を持っていると感じたのだ。これがネルヴァルの最初の狂気の発作に見舞われたときの出来事である。「私にとってはこの時点から、現実の生への夢の流出と呼ぶ現象が始まった。この時から、すべてがときに二重の様相を帯び」始めるようになったのである(田村毅訳)。以来、彼は何度も入退院を繰り返すようになる。しかし、彼の奇行は狂気によるものなのかなどと短絡的になってはいけない。
彼は多くの幻視体験をしているが、これは狂気によるものというより、終始一貫して超越的な暗示や啓示に満ちている。上述したエピソードでは「星」と運命が関係していることから、5月号で触れたマクロコスモスとミクロコスモスの照応関係が示されている。他にもこんな啓示もあった。「天の精霊たちが、人間の形をして、平凡な仕事に専念しているように見せながら、この総会に出席しているのだと思った。私の役割は、カバラの秘宝によって宇宙の調和を回復し、さまざまな宗教の隠れた力を呼び出して、解決を図ることのように思われた」(『オーレリア』、田村毅訳)。
もう既に気づかれたかもしれないが、ネルヴァルはオカルティスムに関する膨大な知識を有しており、初期の頃はオカルティスムに関する文章を書いては生活の足しにしていた。初めての狂気の発作が起きる前の1840年12月15日、彼はブリュッセルで「動物磁気magnétisme」の実験に立ち合っていた。被験者の女性はナポレオンの葬儀の模様を詳細に透視した後、ナポレオンの遺体がアンヴァリッドに運ばれた瞬間、魂が北へ向かって跳び、ワーテルローの野に到り眠りについたと語った。葬儀に関しては翌日の新聞に書かれていた通りであり、まさにこれは透視というしかない。
小説『オーレリア』では、オカルティストたちが偉大なる錬金術師と呼ぶピコ・デッラ・ミランドラ(1463 -1494)、スヴェーデンボリ(1688 -1772)、さらには降霊術師、カバラ、動物磁気説、あるいはフリーメーソンへの暗示などに言及している。具体的に幾つか例を挙げてみよう。「魂が磁気によって星の中に引き付けられ」は動物磁気説と占星術、「彼らは幾つもの世界を束ねる聖なる〈カバラ〉の秘密を持ち去り」はもちろんカバラ。こういうのもある。「私の考えでは、地上の出来事は超自然の出来事に合致しうる」、「地上の出来事は目に見える世界の出来事に結びついているのである」、「失われた文字や、消された記号を見いだそう、不協和音の音階を再構成しよう、そうすることによってわれわれは精霊の世界に力を得るのだ」(同書)。
「失われた文字」、「消された記号」などからは、「アダムの失われた言語」あるいは「ヒラムの失われた言語」が想起される。それは原言語とも呼ばれ、エデンの園にいた完璧な状態のアダムが使用していた言語を意味し、それは完璧な知識を有し、それについて語り得る言語である。しかし知惠の実を食してエデンの園を追われたアダムは不完全な存在となり、同時にその言語を失ってしまった。その「失われた言語」を何らかの形で思い出そうとしているのが、オカルティストたちだといえる。
「歩きながら、ある神秘的な賛歌を歌った。どこか別の世で聞いたことがあってそれを思い出した気がしていたのだが、その歌は言い尽くせぬ歓びで私を満たしてくれた。同時に私は地上の衣服を脱ぎ捨て、身の回りに投げ散らかした。道は常に上りつづけ、星は大きくなっていくように見えた」(同書)。「神秘的な賛歌」は「失われた言語」の断片的な記憶のようであり、「星」はあの照応関係を想起させる。フリーメーソンの通過儀礼として、旧約聖書の「列王記」「サムエル記」のヒラムにならって一度地上の生命を死に至らしめるという儀式を行うのだが、「地上の服を脱ぎ捨て」という部分がこれに相当するだろう。
1855年1月25日午前7時、パリのラ・ヴィエイユ=ランテルヌ街で鉄製の横かまちから、12段の石段の下の下水溝に向かって吊るされて死んでいるネルヴァルが発見された。帽子は脱げていなかったというから異様だ。彼の死までもが謎に包まれている。
◇初出=『ふらんす』2016年8月号