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中村隆夫「19世紀のオカルティストたち」

第9回 三つ巴の呪い合戦

 「ある女は、まる裸になって仰向けに寝ころぶと、両手で自分の乳房を握りしめながら両脚をばたばた蹴り立て、またある女は、急にみにくい藪にらみとなり、お尻を突きだして腹ばいになり、こッこッと牝鶏のように鳴き立てたかと思うと、不意にものが言えなくなって、口を大きくひらき、舌を巻き込んで上あごに押しつけた」(松戸淳訳)。

 これはJ.K.ユイスマンス(1848-1907)の『彼方』(1891)の黒ミサの場面を描写した部分である。彼はゾラの門下となった自然主義の時代、『さかしま』(1894)に代表されるデカダンスの時代を経て、心霊自然主義あるいは神秘的自然主義の時代へといたる。この最後の時代の始まりを画する作品が、この『彼方』である。後にカトリックに改宗したユイスマンスは悪魔主義からカトリック的神秘主義へと移行していく。その代表作は『大伽藍』(1898)であり、『腐爛の華』(1906)である。

 ユイスマンスは徹底して文献資料を渉猟し、フィールドワークを行うことで知られている。『彼方』を執筆するにあたって多くの資料を探し、悪魔主義の実体を知るために接近したのがブーラン元神父(1824 -1893)だった。本名はジョゼフ=アントワーヌ・ブーランで、彼は神秘主義的マリア信仰、終末論を信奉し、またさまざまな事件を神の意志によるものと解釈する傾向を強く持つ。さらに教義の重要な部分に「修復」という考えを位置づけていた。これは不信心や瀆神などの罪を、特別な祈りやカトリシズムの実践によって浄化しようとするものである。

 ブーランは神父らしからぬ事件をいくつも起こしていた。1860年には修道女で彼の愛人となるアデル・シュヴァリエが子供を産んだのだが、ブーランが生まれてまもなくその子を殺害したというのだ。また1861年にはアデルと共謀してサン=ガブリエル修道院のシメオン神父が信者たちから集めた多額の寄付金を横領したという詐欺罪により、懲役3年の刑を受けている。1869年には何度かにわたって悪魔祓(ばら)いや催眠術などによって修道女らの治療を行ったことで告発されてもいる。ついに1875年2月1日、パリ大司教J=H.ギベールはブーランにカトリック教会からの永久追放を宣告した。

 ユイスマンスはこの元神父と会うため、スタニスラス・ド・ガイタに紹介してくれるように依頼した。しかしにべもなく断られてしまった。ガイタの秘書で神秘主義者でタロットの達人オズヴァルト・ヴィルト(1860 -1943)あるいは詩人・評論家のレミ・ド・グールマン(1858 -1915)の愛人ベルト・クリエールを介してブーランと会ったようだ。おそらく1890年のことである。しかしこれより前の1887年、ガイタ、ヴィルトらは秘儀法廷の名でブーランに死刑宣告をしていた。ここから「呪い合戦」が始まった。ガイタの批判は主に3点あり、①誰彼かまわぬ性の放縦、②不倫や近親相姦、獣姦、③夢魔との交接、自慰行動をブーランとその信徒たちが実践していたというのである。実際、ブーランの教義には「生命の交わり」というのがあり、それは生殖器官の穢れを祓われると、原罪を免れた選ばれた存在が誕生するという教理である。

 1893年1月4日、ブーランはリヨンで急逝した。彼の死の様子を家政婦のジュリー・ティボーが手紙でユイスマンスに伝えている。「夕食の時間が来ました。あの方は食卓につき、たっぷり召し上がりました。とても陽気でいらっしゃいました。さらにゲイ家の婦人たちのところへいつもの訪問もされました。戻っていらっしゃると、すぐにお祈りの用意が整うかと私に尋ねました。数分後、あの方は気分が悪くなり、『一体これは何事だ?』と叫び声をあげられました。そう言いながらくずおれてしまったのです。[…]断末魔の苦しみが始まりましたが、それは2分と続きませんでした」。

 この突然の死を知ったユイスマンスは、「黒魔術の勝利で始まるとは、1893年は怖ろしい年です」と手紙に書いている。彼は詩人・小説家・ジャーナリストでブーランからオカルティスムを学んだジュール・ボワ(1869 -1955)に自分の考えを伝えた。するとボワは「ジル・ブラース」紙に「私は、ブーランの予感、ティボー夫人とミスム氏の見た予兆、死んだこの男(ブーラン)に対する薔薇十字カバラ団のヴィルト、ペラダン、ガイタの疑う余地のない攻撃について書くことが自分の義務であると考える」と書いた。この記事はガイタらがブーランに呪いをかけたことを糾弾する趣旨のものだった。「フィガロ」紙に掲載されたユイスマンスへのインタビュー記事には、「ガイタとペラダンが黒魔術をしているのは事実です。あの気の毒なブーランは彼らが絶えず送り続けていた悪霊と2年間ずっと戦っていました」と書かれている。

 こうした記事が幾つも掲載されると、我慢していたガイタもさすがに怒り心頭に達し、ボワにピストルによる決闘を申し出た。どちらも怪我を負うことはなかった。ボワの立会人だったヴィクトール・ユゴーの甥のポール・フーシェが「トゥールーズ西南新聞」に書いたことによれば、弾丸の一発は銃身のなかで止まり、ボワとガイタを乗せた馬車を引いていた一頭の馬が倒れたため馬車は横転し、もう一頭の馬は悪魔を見たかのように恐怖で震え、道で20分も釘付けになっていたとのことだ。

 ガイタはブーランの死から4年後の1897年に36歳で世を去った。死因は尿毒症の悪化、あるいは麻薬の常習であったらしい。だが、ガイタがブーランに放った呪いの「流体fluide」のどれかが目的を達成せず宙に迷い、それが自分のところに逆流してきたためであるとの噂が立った。

◇初出=『ふらんす』2016年12月号

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著者略歴

  1. 中村隆夫(なかむら・たかお)

    多摩美術大学教授。訳書カバンヌ『ピカソの世紀』『続・ピカソの世紀』

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