白水社のwebマガジン

MENU

リレーエッセイ「世界のことばスケッチ」

第10回「マリ語②国家語としてのマリ語」田中孝史

 マリ語との出会いを与えてくださったのは、松村一登先生*1でした。日本では、ロシア連邦の域内で話されているウラル語の研究があまり盛んではないことを教えてくださり、「ロシア語の知識を生かして、マリ語の研究をするといいよ」とアドバイスをいただいたことがきっかけで、1992年9月から11か月間、多くのマリ人が住むロシア連邦マリ・エル共和国のヨシカルオラ市(露: Йошкар-Ола, 英: Yoshkar–Ola)にある国立マリ大学に留学しました。
 国立マリ大学は、ロシア国内でマリ語を専攻できる数少ない大学であり、またヨシカルオラが、マリ人たちの事実上の政治的、文化的中心になっているために、他の共和国からも学生が集まってきていました。
 マリの民族名を冠したマリ・エル共和国は、ロシア連邦に多数存在する民族共和国のひとつです。マリの近隣にもタタルスタン、チュヴァシなどがあり、それぞれの共和国ではソ連時代を通じて、ロシア語ではない民族語が使われてきた長い歴史があります。
 マリの場合は、共和国の言語法でマリ語の使用について決められています。これによればマリ語はロシア語とならんで共和国の「国家語」(государственный язык, state language)であるとされており、日々の生活で想定されるほとんどの場面で、マリ語が使われることが認められています。実際、マリ語は行政の言語として使われるだけでなく、教育も行われてきましたし、テレビやラジオなどマスコミでも用いられています。出版物もあれば、マリ語の演劇や歌謡曲もあります。
 ヨシカルオラで、マリ語の存在がわかりやすいかたちで見えるのが、街路名などの2言語表示です。ソ連時代から法律に従ってロシア語とならんでマリ語が用いられており、当時から公共施設の名前や商店の看板、通りの名前などがロシア語、マリ語の両方で書かれていました。写真1は、日本語に訳すと「レーニン大通り」という通りにある街路名表示ですが、こんな感じでロシア語(上)とマリ語(下)の2言語で書かれています。


写真1 :レーニン大通り(現在)上がロシア語、下がマリ語 数字は番地

 写真2は、レーニン大通りの別の場所にあるものですが、まったく同じことが書かれているように見えませんか? 実は、これはソ連時代に設置されたもので、当時の正書法(単語のつづり方のルール)では、「レーニンの」を意味するロシア語の形容詞 Ленинский をマリ語の形容詞として使うときには、単数男性主格形で使うことになっていたため、この通りの場合は、ロシア語もマリ語も同じように書くことになっていたのです*2。つづり方はまったく同じですが、同時代に作られた別の通りの表示を参考にすると、これもロシア語が上、マリ語が下になっていることがわかります。


写真2: レーニン大通り(ソ連時代に設置されたもの)上がロシア語、下がマリ語

 写真3は、数ある2言語の街路名表示のなかでもめずらしい、マリ語が上になっているものです。これはマリ人の作曲家イワン・パランタイ(Ключников-Палантай, Иван Степанович; 1866-1926)の名前を冠した通りの街路名表示で、私が初めてヨシカルオラを訪れた1992年当時は、マリ語が上に書かれている唯一の例でした。その後2010年にもう1か所増えたのを確認しています。法律でロシア語が上と決まっているはずなのに、こういう例外があるところがなんとも微笑ましいです。


写真3:パランタイ通り マリ語が上、ロシア語が下

 マリ人の民族名を冠した民族共和国ではありますが、共和国の人口比を見ると実はいちばん多いのはロシア人で、マリ人は2番目です。そのことが、どちらの言語が上に書かれるかということに影響しているのですが、個人的には、マリ人の共和国なんだから、全部マリ語が上でもいいのではないかと思っています。
 公共の空間における可視化された文字言語の様子のことを「言語景観」と言いますが、少数派の言語が可視化されることは、コミュニティにおけるその言語を話す人たちの存在感を高めることにつながります。マリ語の保護や復興にとっては、これだけでは十分ではありませんが、それでももたらす影響は少なくありません。
 今回は、マリ・エル共和国のヨシカルオラでの様子についてお話ししましたが、次回は共和国外に住むマリ人について紹介したいと思います。

*1 松村一登(まつむら・かずと)言語学者、元東京大学教授。専門はエストニア語、フィンランド語。
*2 現在の正書法では、写真1にあるとおり、固有名詞に由来するロシア語の形容詞は、元になった固有名詞を形容詞として用いるようになりました。

【執筆者略歴】
田中孝史(たなか・たかし)
東京外国語大学 高大連携支援室所属。専門はマリ語(テンス・アスペクト、社会言語学)。

タグ

バックナンバー

フランス関連情報

雑誌「ふらんす」最新号

ふらんす 2024年5月号

ふらんす 2024年5月号

詳しくはこちら 定期購読のご案内

ランキング

閉じる