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往復書簡 「あなたへ」と「あなたから」のあわいで 高柳聡子/アレクサンドラ・プリマック

2025年3月

高柳さん

 まずは、ROARの翻訳チームに新しいメンバーが入ってきたということ、とても嬉しいです! 新しい仲間を見つけてくださってありがとうございます。最近、日本人も含めて色んな国籍の人から「悪いニュースばかり、いいニュースないな」とよく聞こえるようになりました。3年間(もしかしたらそれ以上)いいニュースがない人生を送ってきた自分はそれを聞くと、悪いニュースに対する免疫力がかなり高くなってきたという気がしてきました。

 それはいいことなのか悪いことなのか、分かりませんが、そういう免疫力がこれからみんなに必要となる気がします。なぜなら、世界ではどういうことが起こっても、それを真剣に受け止めてしまうべきではないからです(ロシア語だと「心に近づけないように не принимайте близко к сердцу」という表現ですが)。それは、この3年間(いえ、やはり、亡命の10年間)に身に着けた知恵です。この連載が公開される日のニュースはどういうニュースになるか、私には想像する力がありませんが、おそらくプーチンとトランプのニュースが多いのではないでしょうか。けれど、ショーマン的な政治家の発言は日々変化します。それに気をもんだら利益を得るのはその政治家だけです。私は自分のメンタルヘルスを大事にすること、人生を充実させること、大切な人とお互いを応援しながら生きることを人生の一番大事なルールとしてみなせるようになってきました。

 この戦争から学んだ教訓はとてもシンプルなことです。高柳さんもご存知だと思いますが、ウクライナ人と違って、大半のロシア人が向き合ってきた一番大き困難は死と戦いではなく、家族の絆の破壊です。ショーロホフの『静かなドン』という小説のように、各家族は二つに分かれて、自分の意見と合わない政治的立場を選んだ家族メンバーに対して深い恨みを持っていってしまいました。聞くところによると、多くの人は両親や兄弟と二度と話さないようにしました。自分の場合も、2022年の3月の時に同じような悲劇が 近づいてきましたが、幸い、悲劇が起こる前にプライドを捨てることができました。若い頃と違って、この状況を通じて人間性よりも原則を優先するのは間違っていると思えてきました。

 人間性のことを最近よく考えているし、私以外にもロシアの思想家や政治学者が考えているようです。「公正な平和条約」と「できるだけ早期の平和条約」とある意味相互排他的な条件を同時にあげて状況について意見を述べている記者やインフルエンサーや野党政治家が多いのですが、私は今の平和条約に対して彼らの懐疑的な考えを共有できません。こういうことを公に言うのはなかなか難しいのですが、私は何よりも戦場で人々が死なないようになってほしいです。誰が勝ったのか、その勝利はどれぐらい残念なのか、それはあとで考えてもいいと思います。どうしても政治家になれない自分は、「人々が死なないように」、「両側の兵士が家で待つ愛する人のもとに戻れるように」としか考えられません。「最後まで戦おう」というのは、国にとって利益になりますが、個人の人間の利益にはどうしてもならないのではないでしょうか。どちらの側にとっても。

 ということで、急に自分の意見は西欧人やロシアの野党や移住者と合わなくなってきてしまいました。自分が……対敵協力者なのだろうか? そうは思いませんが、そう思う人もいなくはないでしょう。この疑問を、心に近づかせてしまいました。 日本人の高柳さんは、どう思っていらっしゃるでしょうか。

プリマック・アレクサンドラ


アレクサンドラさん

 戦争が「家族の絆を破壊する」場面は、ちょうどいま翻訳している本の中のエピソードにも書かれています。テレビだけを見ている母と、世界のニュースを見ている娘がどうやっても理解し合えない、話すたびに口論になり、二人とも感情的になってしまう――これは、「プロパガンダ」という単純な言葉で片づけることのできない問題のように思います。

 私は、今回の戦争を機に、大切なロシア人の友人を(おそらく)一人失いました。彼女が現政権を支持していることは知っていたし、その点では意見が合わないことは承知していましたが、それでも悲しいことには変わりありません。日本語がわかる彼女は、私が反戦活動家たちを手助けしていることを知り、友情の「絆」をほどいてしまったのでしょう。20年かけて紡いできた糸は、あっけなく切れてしまいました。喧嘩すらできなかった私にはもう、彼女が深く傷ついていないことを願うしかできません。

 戦時でなくとも、今の日本でも、日常の中にも、そうした瞬間は多々あります。そんなとき私は、喧嘩にならないように自分の意見を静かに引くという卑怯な選択を何度もしてきました。とりわけ母が相手となると、口が立つ私と、すぐに感情的になる母との争いは、何も良いものを生みませんでした。だからといって、私のほうも決して冷静なわけでもなく、うんざりしながら、どうしようもなく傷ついて、最後には二人して泣き喚くことになるのです。でも、そうした無理解と断絶のきっかけは、あくまでも個人の人間関係のうちにあるべきではないのかも思うのです。

 ロシアの人たちが、母との無理解を嘆くとき(なぜだか常に「母」なのですね)、こんなふうに自分の中に眠っている昔の記憶が呼び覚まされます。これは、私がロシアの現代文学を愛する理由のひとつにもなっているようです。以前の手紙にも名前を挙げましたが、ペテルブルク出身の作家マリーナ・パレイは、初期に自伝的な作品を執筆しています。恋に走る母と、そのために祖父母に預けられる主人公の切なさに、世代も国も違うのに、どうしても自分を重ねてしまうのです。それでも母を愛してやまない娘のことを、器用に生きられず、自分の感情をもてあましてしまう女性たちのことが恋しくてたまらなくなるのです。

 10代の頃、私が本を読んだり、文章を書いたりすることが好きだと知った母が、「私の人生を小説に書いてよ」と言ってきました。母が自分の人生をドラマティックだと思っているのだと知って、私は呆れたのですが、今思えば 、確かに良い書き手なら良い作品になるかもしれません(誰の人生も小説になれるはずですし)。戦後の貧しい時代に、障害者の父親との父子家庭で育った彼女の人生も、かなり大変なものであったことは事実です。残念ながら、私には創作の才能がありませんし、当時は永遠の反抗期に入ったばかりで、「家族の恥を世間に晒すつもりはない」と冷たく突っぱねたのでした。

 もう少し優しい言葉で言えばよかったと、ずっと悔やんではいますが、そのかわりに、こうしてときどき話題にしては、あの日々の埋め合わせ(?)をしているのです。それでもいて、おそらく、彼女がいちばん書いてほしいと願っていたことは絶対に書かないつもりでいるのです。それにしても、小説など読んだこともない母は、どんな「小説」を想定して、書いてほしいと言っていたのでしょう。

 私の母は1946年生まれです。「戦争を知らない子供たち」(1970年代の初めに大ヒットした歌のタイトルです)なんだよ、といつも誇らしげに言っていました。戦争中がどれほど大変だったかは、祖父たちから聞かされていましたし、戦後の生まれだと無邪気に自慢している母の嬉しそうな顔も手伝って、戦争のない時代って素晴らしいんだという価値観が子どもの私のなかに植えつけられたのかもしれません。だからこそ、今の世界にも、戦争を肯定する言葉よりも、プロテストの言葉のほうこそ多くあれと願うのです。

 つい最近、ヨーロッパの専門家と話をしたら、まったく意見が合わず、呆然としてしまうという経験をしました。アレクサンドラさんが感じているような疎外感を私も知っています。でも私は、疑問を心に近づけることが、どうやら好きなようです。自分は何者なのか、という問いを抱えている人は、いま少なくないのではないでしょうか。

高柳聡子

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著者略歴

  1. 高柳聡子(たかやなぎ・さとこ)

    福岡県生まれ。ロシア文学者、翻訳者。早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。おもにロシア語圏の女性文学とフェミニズム史を研究中。著書に『ロシアの女性誌──時代を映す女たち』(群像社、2018年)『埃だらけのすももを売ればよい ロシア銀の時代の女性詩人たち』(書肆侃侃房、2024年)、訳書にイリヤ・チラーキ『集中治療室の手紙』(群像社、 2019年)、ローラ・ベロイワン「濃縮闇──コンデンス」(『現代ロシア文学入門』垣内出版、2022年所収)、ダリア・セレンコ『女の子たちと公的機関 ロシアのフェミニストが目覚めるとき』(エトセトラブックス)など。

  2. アレクサンドラ・プリマック

    ロシア生まれ、ヨーロッパ育ち。スペイン、イギリスに住んで、2018年に日本に移住する。University College Londonでロシア詩人のヨシフ・ブロツキーを研究、上智大学で太宰治の作品を研究した。在学中ロシア語で詩や記事を執筆して、雑誌『新世界』等に掲載される。2016 年にロシアの若手詩人賞受賞。現在は出版社に勤めながら、日本文学とロシア文学との繋がりを回復することを目指して、翻訳や執筆に従事している。夢は日本の小説家になること。

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