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往復書簡 「あなたへ」と「あなたから」のあわいで 高柳聡子/アレクサンドラ・プリマック

2024年5月

アレクサンドラ様

 

 もっと早くにお便りしようと思いながら、例年どおり、4月の騒ぎにきりきり舞いしてしまい、気づけば5月になっていました。『ROAR』(*1)の作業も遅れていて申し訳ない気持ちでいっぱいです。

 私にとって4月は新しい学生たちとの出会いの季節なのですが、大学で教えるようになって15年目になろうかというのに、毎回初回の授業は緊張してしまい、前夜はあまり眠れないのです。教室がなかなか見つからず、大学の構内をかけずりまわっているうちに時間が経ち、ああ、もう、だめだ、初回から授業をすっぽかしてしまった……とがっかりする夢をよく見るのです。実際にはそんなことは一度もないのだけど。

 私たちをつないでくれた『ROAR』は、この四月で丸二年を迎えましたね。2022年の4月24日から始まったこのオンライン出版が各言語の翻訳者を求めていたときに、私は手をあげるべきだと思いながらも一週間ほど悩んでいました。翻訳の時間をとれるのかということ、それから、「ロシアの現体制がなくなるまで続ける」と言っている活動ですから、もしかしたら数年続くかもしれず、途中で放棄するわけにはいかないと思ったからです。

 正直にいうと、あの時は「もしかしたら数年続く」かもしれないと思いましたが、今は確実に数年続くと考えています、残念ではありますが。

 一人で細切れの時間をかき集めて翻訳を続けていた私のもとに、編集人のリノール・ゴラーリク(*2)から連絡が来たときの喜びは今も鮮明に覚えています。それから、それがロシア人だという驚きも。反体制運動に手を貸すことで、あなたがロシアに帰ることができなくなるのではないかと心配したりもしました。あなたは「だいじょうぶ」だと言った。あの時に私の中で、アレクサンドラ・プリマックという一人の女性へのはっきりとした関心が生まれたように思います。あなたの人生について何か書いてくれると嬉しいです、少しずつでかまいません、あなたの半生を知りたいと思うのです。

高柳聡子

*1 2022年4月24日に創刊されたオンラインジャーナル「反政府ロシア語文化通報」。https://roar-review.com/ROAR-1b4e32f7b7cc4bf18b40fb9ec13f613f

*2 ウクライナ生まれ、イスラエル在住のロシア語作家。日本語で読める作品に、オンラインジャーナル「チェマダン」に掲載された『エクソダス-22』(伊藤愉訳・解題)がある。また、日本語で読めるゴラーリク作品研究に、マリア・プローホロワ氏によるものがある。

 


 

高柳様

 

 素敵なお手紙をありがとうございます。最後は涙が出そうになりました。

 私も『ROAR』のチームに参加しようと思った時期をよく覚えています。2022年4月24日からずっと『ROAR』を読んでいた私は関わりたい気持がありましたが、勇気がありませんでした。ただ、それは反体制運動に参加することに必要な勇気の話ではありません。外国人の私が本当に詩の露日翻訳をできるか、自信がありませんでした。しかも、日本に滞在するロシア人はロシアの大学で日本語を勉強してから日本に引っ越すパターンが多いのですが、私は当時、日本生活4年目で、日本に来た時に日本語は一言しか話せなくて、漢字は全く読めませんでした。

 その哀れな自分が詩の翻訳を手掛けるのは無理だろうと思いつつ私用でスペインに行って、二か月ヨーロッパにいないといけないことになりました。その二か月は日本の生活が恋しすぎて、少なくとも言語を通じて繋がりたいと思い、リノール・ゴラーリクへ連絡してみました。そこから高柳様を紹介されて、『ROAR』のチームに優しく歓迎されました。因みに、当時はまだ知識不足、「高柳様」より「高柳さん」と書いてしまって、ずっとプライベートメールはその呼び方になってしまいますね。申し訳ありません! と言いたい気持ちを持ちながら、ロシア人の心で反体制運動の仲間と距離感をおくべきではないと感じていることもあります。

 仲間と呼んでもいいのでしょうか? 平和で安全な日本で生まれて、ロシアのことに人生を捧げているあなたは凄いと思います。ロシア人として生まれた私たちは生得権でロシアに対する責任を負いますが、自分の意志で私たちの文化の負担を引き受けることには本物の愛が必要でしょう。その愛を持ってくださって、感謝しています。そしてロシアに関して興味を持ってくださった皆さんに感謝しています。

 最近、亡命のことよく考えています。亡命には二つ可能性があります──死になるか、生まれ変わりになるか。イヴァン・ブーニンは前者で、ウラジーミル・ナボコフは後者で。つまり、「死」ということはもちろん肉体の死に限りません。ブーニンは1920年にロシアから追い出されて、その後ずっとロシア語で既に存在しなかったロシアを描いていきました。1933年にノーベル賞をとった彼に対して「死」という言葉を使うのは珍しいと思うかもしれませんが、彼の心はずっとロシアに残っていて、亡命生活は過去の思い出に比べて現実にならなかった気がします。ナボコフのノスタルジアも強かったらしいのですが、彼は英語で書く作家として生まれ変わりました。

 10年前ロシアを出た私はやはり生まれ変わりたいです。ナボコフみたいに外国語で自分の中で宿っている想いや悩みを語れると生まれ変われますでしょうか。生まれ変わらなくても、少なくともロシアのもう一つの面を日本語で伝えられると、今まで経験したことがない充実感を得ると信じています。

 

アレクサンドラ・プリマック

 


 

アレクサンドラ様

 

 お返事どうもありがとう。仲間ですね、私たち、そして友人です。だから「様」ではないほうが嬉しいです。

 仰るとおり、「平和で安全な」日本で生まれ育った私は(たぶん他の人たちも)、「亡命」は自分の身に起こることではないと思って生きてきました。外国で暮らしてみたいという夢はありましたし、今もありますが、それはもちろん、日本を棄てることにはなりません。だから、アレクサンドラさんから、近い未来の自分のこととして「亡命」という言葉が自然に出てくるのを読みドキリとしました。日本語の「亡命」という語がもつ悲劇性も多分にあるのでしょう。日本があなたにとって良い亡命地となれば嬉しいですが、それでもやはり、いつでも生まれた国へ帰る自由ももっていてほしいと願わずにはいられません。

 アレクサンドラさんはトムスクのご出身ですよね? 憧れの西シベリアの古都ですが、私はまだ訪れたことがありません。私が最近気に入っている若い作家や詩人たちは、ロシアの地方都市出身の人たちが多いのです。それが偶然なのかどうかはまだわかりませんが。

 ひと昔前は、ペテルブルク出身の作家たちに強く惹かれていました。特に1950年代生まれの世代は、タチヤーナ・トルスタヤやマリーナ・パレイなどレニングラードという都市が作家を生み・育てるのだという気がしたほどです。でも、1980-90年代生まれの世代では、地方出身の作家たちがとても良い作品を書いているように感じます。ソ連崩壊の時期、地方はモスクワやペテルブルクよりも生活が大変だったということもあるのでしょう、貧しかった子ども時代の回想やモスクワに出てからの違和感などに、やはり地方出身の私自身が共感を覚えるということもあるでしょうが、それだけではありません。これまでモスクワやペテルブルクを通してしかロシアを見てこなかった自分に、新たな視点を与えてくれるのだと思います。

 そして、アレクサンドラさんの語る言葉もまた、私の知らないロシアや日本、文学や世界の見方を示してくれるものとなるのでしょう。この往復書簡が、本当にとても楽しみです。

 

高柳聡子

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著者略歴

  1. 高柳聡子(たかやなぎ・さとこ)

    福岡県生まれ。ロシア文学者、翻訳者。早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。おもにロシア語圏の女性文学とフェミニズム史を研究中。著書に『ロシアの女性誌──時代を映す女たち』(群像社、2018年)『埃だらけのすももを売ればよい ロシア銀の時代の女性詩人たち』(書肆侃侃房、2024年)、訳書にイリヤ・チラーキ『集中治療室の手紙』(群像社、 2019年)、ローラ・ベロイワン「濃縮闇──コンデンス」(『現代ロシア文学入門』垣内出版、2022年所収)、ダリア・セレンコ『女の子たちと公的機関 ロシアのフェミニストが目覚めるとき』(エトセトラブックス)など。

  2. アレクサンドラ・プリマック

    ロシア生まれ、ヨーロッパ育ち。スペイン、イギリスに住んで、2018年に日本に移住する。University College Londonでロシア詩人のヨシフ・ブロツキーを研究、上智大学で太宰治の作品を研究した。在学中ロシア語で詩や記事を執筆して、雑誌『新世界』等に掲載される。2016 年にロシアの若手詩人賞受賞。現在は出版社に勤めながら、日本文学とロシア文学との繋がりを回復することを目指して、翻訳や執筆に従事している。夢は日本の小説家になること。

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