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往復書簡 「あなたへ」と「あなたから」のあわいで 高柳聡子/アレクサンドラ・プリマック

2025年1月

高柳さん

 明けましておめでとうございます。

 この手紙を書いているのは1月上旬で、日本に帰ってきたばかりです。ニューイヤーを香港で迎えました。比較するとやはり、日本の年末年始は世界中で一番静かな年末年始かもしれません。

 香港はもちろん、ロシアほど賑やかにニューイヤーを祝わないのですが、日本より盛り上がります。カウントダウンも、花火も、シャンパンまでもありました。不思議なロシア風と海外風の間の経験になりました。一緒に行った友達は全員アジア人で、ロシアと全く関係ない人たちですから、12月31日は人生で初めて『運命の皮肉、あるいはいい湯を』を見ませんでしたし、若いロシア人たちみんなが大統領の新年の演説の代わりに見ている政治学者でユーチューバーのエカテリーナ・シュリマン(*1)の演説も見ませんでした。時間の流れ、老化、死、戦争などのいつものテーマのこと考えず話さずに乾杯して幸せに新年を歓迎して、すごいと思いました。戦争が始まる前でも私にはこんなのは無理でした。ですが、悲劇的ではない生き方を、私は勉強したいと去年思いました。少なくとも、具体化するためではなく、参考にするだけのためです。

 香港に行くこと自体も初めてでしたが、とても良かったです。高柳さんは行ったことがあるのでしょうか? アジアなのにヨーロッパっぽい。ヨーロッパっぽいのにヨーロッパにはありえない人生のリズムです。10年前初めて日本に来た時には、東京より未来的で希望が大きい街を想像できませんでした。しかし、今回香港駅に着いて、外に出ると猛烈な渦巻に巻き込まれました。駅から上にのぼるエスカレーターでもありえないほど速くて、旅の時でもハイヒールを履いている私はエスカレーターに乗る度に注意して変なジャンプをしなければなりませんでした。街並みをもちろん写真で見たことがありましたが、実際に香港の建物の間に立つと、写真は比べ物になりません。「ぼくはふるえおののく虫けらか、それとも権利があるか」というラスコーリニコフの疑問には、ドストエフスキーがもし香港人であればまた別の意味が入るでしょう。上を眺めていた時に自分が虫だと強く感じていました。しかし、積極性で知られている香港人にとってはその無力の気持ちはモティベーションになっているかもしれません。

 もう一つの印象的な経験は、香港の詩人のジャッキー・ユエン(Jacky Yuen)との出会いでした。急に知り合いの日本の詩人にメールで紹介されて、その数時間後に二人で散歩に行くことになりました。日常生活や街自体の話も結構しましたが、一番刺激的だったのはもちろん詩の話です。現在のロシアの詩人の状況と香港の詩人の状況は大変似ていると思いました。久しぶりに私のことをこんなに分かっている人と出会ったと感動しました。政治の話に限らず、オシップ・マンデリシュタームの名前まで挙げられて、マンデリシュタームの詩の魅力は時代を超えて誰でも共感できる永遠の人間の悩みや悲しみを表現するのだと同感して、香港の図書館の空気の中でマンデリシュタームの名前が反響することが珍しすぎて心から喜びました。

 「詩人の役割は政治に参加することではない。答えを出すことでもない。詩人は弱者の側につく人だ。そして問う人だ」
とジャッキーが言い足すと、まさにマンデリシュタームの妻のナジェージダ・マンデリシュタームの「殺された者は常に殺した者よりも強い」という言葉を思い出しました。ジャッキーはその言葉を知っていたかどうか分かりませんが、マンデリシュタームや彼の記憶をとどめた奥さんの心を分かっているのは間違いないです。

 やはり、人類の中で詩人だけは死を超える存在でありますね。何世紀経っても、そばに立っていて、実際に話に参加できているみたいです。自分も今年、散文だけではなく詩も頑張りたいと決心しました。

 

 2024年は確かに実り多い一年でした。この連載も含めて、色んな意味でやっといいところに辿り着いてきたという気がしました。なので、今年もたくさん書き続けて読み続けて、成長したいと思います。無力を感じさせる戦争の時代には、情熱的に頑張りたいことがあることは幸せではないかと思います。

 今年も、どうぞよろしくお願いいたします!

アレクサンドラ・プリマック

*1  ロシア人政治学者。政権に批判的な幅広い世代のロシア人から人気を集め、2020年には「最も影響を与える人物」に選出される。
ロシア政治の分析を発信するYouTubeの登録者数は120万人。


アレクサンドラさん

 明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 香港のお正月のお話、とても楽しく読ませていただきました。私も香港はとても好きです。日本ともロシアとも「空間」の概念が異なっている気がするのです。商業ビル、住宅、歴史的建造物──建築物を見ながら歩くだけでも興味が尽きず、ビルと人間、商業と政治、歴史と現在のすべてが混淆したあの不思議な空気に包まれることが、なぜだか無性に心地よいのです。もちろんこれは、呑気な旅行者の感性にすぎないのでしょうけれど……。

 私が行ったのは2018年で、その直後に、あの民主化のデモと一連の弾圧が起きました。旅の新鮮な思い出を抱えたまま日々のニュースを見るにつけ、活気に満ちた街は今どうなっているのだろう……と心配になっていました。アレクサンドラさんのお手紙から今も生き生きとした街の様子を知ることができて少し安堵しました。私もまた訪ねてみたいと思います。

 それにしても、 旅先で詩人と出会うだなんて、まるで映画のようですね。でも詩人というのは、言葉となって自由に時空を行き来し、国境や時代さえ易々と超えて、まるでそれが必要であるかのように繋がっていくものなのだとあらためて思いました。

 ジャッキー・ユエン(Jacky Yuen)という詩人を私は知らなかったのですが(そもそも香港の詩人を一人も知りませんでした)、英語で検索してみました。「Dreamwalkers」という詩が見つかりました。その詩は、〈私は夢の中で死を見る、戦争を見る/夢の中で私は時代という氷河の裂け目から出てきた一匹の蠅を見る〉と始まり、後に〈私はすべての希望がここにあることを夢見る〉と語られています。ご本人が仰るように「詩人の役割は政治に参加することではない」のですが、だからといって詩も詩人も政治と無縁であることが難しい時があるものです。ジャッキーさんにとっても、そして他の香港の詩人たちにとっても、1930年代のロシアや日本の詩人たちに似た時代がいま到来しているのかもしれません。まるで必然のようにマンデリシュタームを読む詩人たちが彼の地にいるとしたら、彼らの運命に希望が潰えることのないよう祈るばかりです。

 

 私のほうは、残念ながら明るいお正月とはなりませんでした。元旦の早朝に坐骨神経痛の症状が出てしまい、痛みとしびれで歩くことも座ることもできず、三が日は寝たきりで過ごすことになりました。今も足の麻痺は残っていますが、ようやく回復の兆しが見えてきたところです。

 

 また2月がやってきますね。以前は東京にいながらもマースレニツァにブリヌイを焼いたりしていましたが(*2)、その気分も3年前から消えたまま。暦を確認したら、今年のマースレニツァはまさに2月24日からのようです。私たちにとって忘れることのできないものとなった戦争の始まりの日から3年が経とうとしています。

 私たち二人が携わっている『ROAR』の編集人リノール・ゴラーリクは最初の頃、「編集人より」の末尾に毎号同じ文言を載せていました──〈私たちはすでに『ROAR』を永久に終えることのできる時が待ち遠しい──つまり、この体制がその存在を終え、ロシア語文化の一部を犯罪的なロシア体制に反対する立場にあるものとして強調する必要のない時が。でもまだそれは起きてはいない。私たちは『ROAR』を出し続けるために、出来るかぎりのことをやっていくつもりだ〉(*3)と。

 アレクサンドラさんも、そして私も、情熱的に頑張りたいことにすべての時間を捧げることができたらどんなにいいだろうと思います。それでも戦争に反対の声をあげる作家や詩人たちから目を逸らしたくはないという気持ちは強く、今年も電車の中でパソコンを打つことになるのでしょう。『ROAR』の話を始めると長くなりそうですので、今月はこのあたりで筆を置くことにします。まだ寒い日が続きますが(とシベリア育ちのアレクサンドラさんに言っていいのかどうかわかりませんが)、どうぞお元気でいてください。

高柳聡子

*2 「バター祭り」と呼ばれる東方正教会の謝肉祭にあたるもの。ロシアでは春の訪れの儀式ともいうべき祝祭の一週間で、黄色く丸い太陽の象徴として「ブリヌイ(ブリン)」というクレープを食べる習わしがある。
*3 https://www.roar-review.com/ROAR-2-24af66d471b84e4b9cb619b75cfdab8a

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著者略歴

  1. 高柳聡子(たかやなぎ・さとこ)

    福岡県生まれ。ロシア文学者、翻訳者。早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。おもにロシア語圏の女性文学とフェミニズム史を研究中。著書に『ロシアの女性誌──時代を映す女たち』(群像社、2018年)『埃だらけのすももを売ればよい ロシア銀の時代の女性詩人たち』(書肆侃侃房、2024年)、訳書にイリヤ・チラーキ『集中治療室の手紙』(群像社、 2019年)、ローラ・ベロイワン「濃縮闇──コンデンス」(『現代ロシア文学入門』垣内出版、2022年所収)、ダリア・セレンコ『女の子たちと公的機関 ロシアのフェミニストが目覚めるとき』(エトセトラブックス)など。

  2. アレクサンドラ・プリマック

    ロシア生まれ、ヨーロッパ育ち。スペイン、イギリスに住んで、2018年に日本に移住する。University College Londonでロシア詩人のヨシフ・ブロツキーを研究、上智大学で太宰治の作品を研究した。在学中ロシア語で詩や記事を執筆して、雑誌『新世界』等に掲載される。2016 年にロシアの若手詩人賞受賞。現在は出版社に勤めながら、日本文学とロシア文学との繋がりを回復することを目指して、翻訳や執筆に従事している。夢は日本の小説家になること。

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