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小沼純一「詩(うた)と歌(うた)のあわいで」

第12回 P.V.G.……そして、

 プレヴェール Prévert、ヴィアン Vian、ゲンズブール Gainsbourg。

 それぞれに大きく与えられる呼称がある。詩人、作家、歌手。でも、それだけじゃない。自分のやりたいことをやる。やれることをやる。ときには思い掛けないことを依頼され、引き受けて、新しい領域に足を踏みいれることもあるだろう。ことばに、音楽に、造形に、映像に、いろいろなかたちでかかわった。マルチ? いやいや、そういうつまらない言い方はしたくない。

 何かが心身(のなか? 奥? それとも皮膚?)にあり、それを外にだす。だそうとする。それが表現だ。かたちはちがうかもしれないが、外にだしたい、外にあらわしたい、かたちにしたい、その欲望は変わらない。いや、心身にあるうねりと表現はけっして単純に分けられるものではない。もっとからみあったものだ。でも、それが何らかの媒体とかかわってあらわれてくる。そして時代によって表現の媒体は変わる。ことばや絵が中心になっていた時代から、おなじことばでも映画と結びついたり、テレヴィと結びついたり、いまだったらネットのなかを飛んでゆくものとなったりする。

 つくり手がどんなふうに世間に顔をだすかも変わってくる。映画の時代のプレヴェールは、現場にいたかもしれないが、フィルムに姿が映りこむことはない。ヴィアンは端役として出演するが、監督をしたりはしない。ゲンズブールは映画に音楽を加え、演じ、撮影する。テレヴィではみずからの虚像を生みだすだろう。プレヴェールとゲンズブールのあいだに20 世紀の前半と後半が、1900 年生まれと 1928 年生まれという 30 ちかい年齢差による、文字を主要媒体とし、ことばがうたと分業の世代と、ことばと音楽がうたとして生まれてくる世代の差が、資質の違いがある。あいだにヴィアンがいて、両者の架け橋になる。メディアが変化してゆき、表現が多様になる。

 

 プレヴェール最初の詩集『パロール/Paroles』は、自分でまとめたというより、さまざまな場で書き散らしてきた詩を友人たちが集めてきてつくられた。19世紀半ばにボードレールが詩集というまとまりに対して抱き、近現代において詩集というかたちが持つことになった意識をわざとかわし、すでにシャンソンとして知られたものも多く収めた詩集。それらしき詩集のかたちをとりながら、窮屈な本から、まとめられたページから外にでようとしたがる詩を書きつづけたプレヴェール。そのときどきに応じて、あらかじめある曲にあわせ、音楽家と協働しながらことばを放出していったヴィアン。そして、浮かんでくるメロディや歌い手のキャラクターやイメージとともにいくつものペルソナをかぶってはとり、とっては捨てたゲンズブール。

 

 紙のかたちでも、うたのかたちでも、ことばは変わってゆく。声/パフォーマーや曲のかたちでもまた。政治や社会、個々人のいる場所、一対一の恋愛の、ついと悪態をついてしまう、そんなさまざまな状況のなかでも。いろいろなファクターがからみあって、ことばは、うたは、ときにもてはやされ、ときに嫌われ、ときに忘れられ、ときに想いだされる。

 詩を、うたをつくるとき、唇にのぼらせるとき、人は肉体からはなれる。べつの人になる。さまざまな人物になる。詩・うたごとに、いや、ひとつの詩・うたのなかでも、だ。そして読み手の、聴き手の、受け手のなかに瞬間の単語が、フレーズが、イメージが、意味が、浮かび、消える。散ってゆくものがあり、拾いだされるものがあり、想いだされるものがある。

 

 「ジェーン・バーキン震災復興支援コンサート Together for Japan」がおこなわれたとき、2011年3月11日、つまり東日本大震災からまだ1か月も経っていなかった。作曲家・ピアニスト、中島ノブユキはこのコンサートに参加し、以後はジェーンのツアーに同行するのみならず、昨2016年にはゲンズブール作品をオーケストラに編曲し「Gainsbourg Symphonique」をヨーロッパ各地で開催、大きな成功をおさめた。ことしはさらにCDアルバム、さらには東京での公演も計画されている、と聞く─。

 

 ことばをのせながら、ことばの意味やニュアンスからこぼれおちるものを加えることができるのがうただ。ときにことばの意味やニュアンスから逸脱し、べつのところにはずれていったり、べつのものと結びついたりもする。そしてそれがうたの自由だ。うたは音楽なのか、どうか。音楽でありながら音楽そのものではないかもしれず、ハイブリッドなもの。古代ならことばと音楽と舞いが結びついていただろうが、いまは、どうなのだろう。

 音楽はそのとき・その場所でしかありえないが、歌い手が、演奏者が変われば、また、その楽曲を扱う手が加わることで、あらたなかたちで生まれかわれる。フェニックスが火をくぐればいつまでも死ぬことがないように。

 

◇初出=『ふらんす』2017年3月号

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著者略歴

  1. 小沼純一(こぬま・じゅんいち)

    音楽・文芸評論家。早稲田大学教授。著書『ミニマル・ミュージック』『音楽に自然を聴く』

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