第1回 P.V.G.エトセトラ
おなじことばなのに、フシがついていると、フシがあると、届くところが違うみたいだ。空気をとおして振動が伝わって、からだに、脳に、文字で読むのとべつのかたちで作用する。
うた、はむずかしい。うた、って何だろう。フシ(節)? ことば? 声? おなじうたでもうたう人で違うものになる。耳にする人って何を聴いているんだろ? よく知ったうたなら、記憶にあるものに重ねながら、いま、耳にしているのを聴いていたりもするし。
うた、は音楽なのかな? ことば、かな?
音楽、って言い切れない、切れないような気もする。でもつながってはいる。つながってこそ浮かびあがってくるものがある。
音楽という、日常のことばとはべつの、ことば。うたは、だから、いわゆることばと音楽と両方の領土に足をのせている。
うたをめぐるいくつかの異なった立ち位置の人たちにふれてみたい。そうして挙がってきたのがこんな人たち。ジャック・プレヴェール Jacques Prévert、ボリス・ヴィアン Boris Vian、セルジュ・ゲンスブール Serge Gainsbourg。
3 人が 3 人ともうたとかかわった。そして一言でその活動は名指せない。幅広い。でも、ことばが中心にはあった。重心はことばだ。ことばを重心にしながら、いろいろな活動をする。行動をする。ただことばを紙に書きつらねているだけじゃない。ほかのメディアにつなげて、つながって、広がってゆく。たとえば映画。映画は映像でできている。ストーリーがありセリフがある。ストーリーなんてなくなってかまわないけど、ことばがイメージを喚起する。小説だってそうだ。乱暴に一括りにしてるけど。
ゲンスブールはうたう。そしてうたうことが中心にある。映画をつくり、本も書いたが、その中心にはうただ。うたは変わっていった、いろいろに。視覚的な、というか、見え方の変化もあった。カッコよさもそのときどきで変わっていった。
ヴィアンはうたう。ジャズを愛し、レコードのディレクターをつとめ、アメリカのジャズ・ミュージシャンをフランスに紹介した。うたを歌い、楽器を演奏した。詞を書き、詩を書き、海外のうたも翻訳・翻案した。小説を書き、戯曲を書き、ガイドブックを書いた。映画では長身の静かな紳士を演じた。
プレヴェールはうたわない。映画にかかわり、コラージュをし、童話を書き、たくさんの詩を書いた。詩にフシがつけられ、歌われていった。本にするより前にことばが口伝えに広まった。何となくまぶたが重く、たばこを指にはさんで、笑わずに。
プレヴェール=カルネの『天井桟敷の人々』だったりヌーヴェルヴァーグだったりファッションだったり。いまジャン=ルイ・バローとアルレッティといってもぴんとこない人も多かろう。ゲンスブールとジェーン・バーキンといってもおなじだし、「うたかたの日々」ということばへの反応はまだら模様か。逆に、プレヴェールもゲンスブールもおなじところから距離をもってみられもしよう。そういえばと想いだしてくれる往年のファンもいるだろうし、知らない人はこんな人こんな作品があったんだ!とおもってくれればいい。距離があることで、いつ、なんどきに、どんなものがいいと感じられたのか考えるきっかけになるかもしれない。
いろいろな活動をすこしずつみて、各人のうたが、ことばが、どんなところにあったのかがみられるといい。
この雑誌は「ふらんす」だ。でもだんだんと、昔おもわれていた、感じられていた「フランス」から、フランスはもっと広く、多領域なところになってきた。おなじように、この地域・ことばを通過していった人にも、ちょっとふれてみたい気もしている。間奏曲として、P.V.G.─上記の3人のイニシャルね─にはさんでみたらどうだろう。ドイツからフランスを経て、アメリカ合衆国に行った人。この3人とはべつのかたちでこの人たちと交差したりしなかったりする人。20世紀のある時期、フランスという土地でことばと音楽と、うたとにかかわる人たちが交差する。かならずしも接点はないけれど、たくさんいる人たちのなかで、フォーカスしてみたらおもしろいんじゃないか。P.V.G.にひとつテーブルについてもらうことは容易じゃないけど、ゲストも招いてみると、もしかしたら何か見えるものがあるんじゃないか。
そんなことをおもいつつ。書いてみたいかな、と。
◇初出=『ふらんす』2016年4月号