第10回 ゲンズブールと声
生粋のフランス人のはずなのにロシア系の名を持つボリス・ヴィアンは、母親が大のオペラ好きだったおかげでこの名を授かった。いうまでもない、《ボリス・ゴドウノフ》からであり、ほかの兄妹も「レリオ」であり「ニノン」だったりする。前者はベルリオーズ、後者はレオン・ヴァスールの作品に由来。ぴんとこなくても大丈夫。かなり凝った名づけだというのがわかれば。
対して、ロシアからの亡命者の子であるセルジュ・ゲンズブール、もともとの名はリュシアン・ギンスブルグ、よく知られる名になったのは音楽とかかわるようになってから。フランス語をカタカナにした名では、ともすればわかりにくくなるけれど、この姓はアメリカでギンズバーグ、イタリアでギンスブルクと気がつけば、アレンだのナタリアだのカルロだのと近しい名が浮かんできたり。
画家になろうとしていたリュシアンは生活の糧を得るためにピアノを弾き始める。父親がそもそも画家にしてピアニストだったし、息子にも習わせていたから、芸は身を助けるといったところだったか。弾いている店「ミロール・ラルスイユ」で見かけたのがボリス・ヴィアン。これくらいでいいならオレもとリュシアンはおもう。しかもヴィアンの余命はそんなにない。本人は知る由もなかったが。いや、予感はあったのかもしれない。心臓に爆弾をかかえていたから。
ヴィアンはラジオで新進ゲンズブールを紹介もするだろう─「これを聴いてみたら、皆さん方、ゲンズブールは大した声じゃないかって言われるでしょうね。ええ、ちょっと聴こえづらくって、あまりにとまでは言えないにしろ、鼻にぬける声なんですよ。でも、オペラを歌うわけじゃないんだ。もしオペラをお望みなら バ ス 歌 手 の グ ザ ヴ ィ エ・ドゥプラ(1926-1921)のレコードを買ってください。おもいだしてほしいのは、歌手にして俳優のフィリップ・クレイ(1926-2007)。そうなんです、どうしてかって、ゲンズブールやクレイの声がおなじ質だから。それで、って? ゲンズブールはやっぱりクレイのちょっとばかり緊張して渋みがかった側にいるからなんです。」(1958 年 11 月 12 日 Canard enchaîné の放送で)
《プレヴェールのシャンソン LaChanson de Prévert》は、ほかのではなく、あまりに知られすぎているから避ける、ではなく敢えてこれをとストレートに《枯葉》を扱う。しかもしっかり原曲のプレヴェール自身の詩を踏まえている。言い換えれば、この《枯葉》がまたひとつの元恋人たちの物語=歴史とからむ大切なきっかけになっている。これを聴きながら、うたとそこにこめられているものを、さらに自らに重ねることも可能だ。ゲンズブールはプレヴェールの自宅まで許可をとりにいく。1960年である。
1991年3月に亡くなるまでゲンズブールは作詞・作曲した。語り、歌い、演じた。はじめこそシャンソンのながれのなかにいたし、歌っていたが、だんだんとはずれていった。マンボやチャチャチャ、あるいはレゲエのリズムといったスタイルをとりいれ、ロックのリズムとコード進行を反復して用いることで一種のバックトラック、あるいはサウンドスケープとし、うたと語りの境界があいまいになり、行ったり来たりするようになる。詩とメロディーはべつべつにある、べつべつのところからやってくるのではなく、おなじところから生まれ、ときによって重心が変わって語りが勝ったりメロディーが勝ったりする。ときにはことばにならないことばが、ささやきやあえぎが、ため息が。詩と曲があって、歌い手とアレンジが変わって、ではなく、その歌い手のパフォーマンスをすくなくとも音声としてはとらえることができる、そういうことをやってもいい、そんなレコーディング・テクノロジーの可能性も開かれていたのだろう。レコーディングにアラン・ゴラゲールやミシェル・コロンビエといった音楽家が携わっていたのも記憶しておきたいし、ブリジット・バルドーやジェーン・バーキンなどの女性の声の介入も、当然、ことばや音楽のつくりそのものとかかわっていた。
プレヴェールからヴィアン、そしてゲンズブールとならべると、本人の姿や露出度がはっきり違っているのがわかる。プレヴェールは無愛想な顔の写真、ヴィアンは愛想のよい、友人・知人との写真からトロンピネットを吹いたりする写真、映画の動画までそれなりにある。ゲンズブールなら文字よりも声であり映像だ。このあたりを振りかえると、マクルーハンの文字の時代から声の復権ということもまんざらではなかったような気さえしてこないでもない。生まれた時代は少しずつ違うがいずれも20世紀。その10年20年の違いでこんな変化があるのかと、特に世紀のはじめについては驚かされずにはいないのだ。
◇初出=『ふらんす』2017年1月号