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小沼純一「詩(うた)と歌(うた)のあわいで」

第7回 翻案家としてのヴィアン

 クルト・ヴァイルにとって、フランスは結果的にドイツからアメリカ合衆国へと渡る際、一種の寄港地程度の役割だったのかもしれない。それでも、フランスで書かれた幾つかの曲はしっかり残っているし、この音楽家にとっての移動と言語、音楽のジャンル/スタイルといった側面から発見できることもある。

 第二次世界大戦が終結した後、ヴァイルは1950 年に亡くなり、また、合衆国から東ドイツへとむかったベルトルト・ブレヒトも1956 年には世を去る。その後、ワイマール共和国時代のブレヒト=ヴァイルのソングは舞台のコンテクストをはずされ、英語の歌詞をつけられて、スタンダード・ナンバーになってゆく。ときにはブレヒトの詞は使われず、書き下ろされたものに変えられてしまったり、あるいは、大きく手を加えられたりもして。そんなナンバーが、逆に、フランスでもいくつかながれることになる。こういうのを何と呼ぶのだろう? 逆輸入? ちょっと違うな……。

 《三文オペラ》のなかからは〈メッキ・メッサーの哀歌〉、《ハッピーエンド》から〈ビルバオ・ソング〉や〈スラバヤ・ジョニー〉、〈ナナのうた〉、さらに(これはヴァイルではなくパウル・デッサウの作曲だが)〈煙のうた〉等など。〈ビルバオ・ソング〉はイヴ・モンタン、その他はカトリーヌ・ソヴァージュが歌っているのだが、これらのフランス語訳、というより翻案はボリス・ヴィアンがおこなっている。

 ヴィアンはもちろんヴァイルにもブレヒトにも会ってはいない。大戦中はフランス標準化協会(AFNOR)に勤務していた。もともと名家の出身で、超難関校エコール・サントラル・パリに通い、エンジニアの学位を得ての就職である。しごとの合間には詩を書き、アマチュア・ジャズ・バンドの演奏に加わったりしていた。戦争が終わって、その活動はさらに広がる。いや、それが万人に認められるものだったかというと、難しいかもしれない。だが、その活躍の幅は従来の芸術家からはみだすものを持っていた。文筆家は文筆を、音楽家は音楽を、というだけでなく、多領域にわたって文字どおり自由にというあり方は、おそらく20 世紀の環境でこそ、だっただろう。

 ヴィアンがポピュラー・ソングのしごとをするようになるのは、1949 年にポリドールの社主ジャック・カネッティとの出会いによる。1950 年にはアンリ・サルヴァドールと〈これがビバップだC’est le be-bop〉で初仕事。このときは単発だったが、56 年から59 年にかけては80 曲以上もの曲を一緒につくることになる。

 もともと音楽好きだったし、自らトロンピネット(小型のトランペット)を吹いていたヴィアンだったが、心臓の調子がいまひとつ良くなくて─結局、このせいで40 歳を待たずに夭折することになる─やめざるをえなかった。かわりに何をしたかというと、レコードの制作であり、ジャズ中心の紹介・批評であり、歌詞づくりである。そう、もうひとつある。自らがうたう、だ。よく知られているのは〈脱走兵Le Déserteur〉だろう。そして〈ぼくはスノッブ J’suis snob〉か。ここでは前者をみたい。

 あまり作曲は得意でなかったようで、作詞はしたけれども、曲はアロルド・ベルナール・ベルクとの共作。1954 年5 月に22 歳のムルージが歌って放送される。

 この時期、しかし、ややこしい時期だった。第1 次インドシナ戦争末期、最大の戦闘がディエンビエンフーで行なわれ、要塞が陥落、約1 万人の戦死者がでたのは5 月7 日である。つづいてアルジェリア戦争である。レコードの発売はこの時期だ。こんなとき、「大統領閣下/戦争したいわけじゃない/この世界に生まれたわけじゃない/かわいそうな人たちを殺すためじゃない(Monsieur lePrésident / Je ne veux pas la faire / Jene suis pas sur terre / Pour tuer depauvres gens.)」とは剣呑である。予想どおり、というべきか、じつは何度も部分的に詞は変えられたりもしたのだったが、うたは長いこと禁じられた。ヴィアン自身の録音は1955 年の録音。検閲からはずれるのは、作家が亡くなってから何年も経ってからのこと。

 他方、ヴェトナム戦争時には、ジョーン・バエズやピーター・ポール&マリーが反戦歌として歌っており、さらに極東の列島においても、いわゆるシャンソン系の歌い手はもちろん、高石友也、加藤和彦、沢田研二が─〈拝啓大統領殿〉〈拝啓大統領閣下〉〈脱走兵〉とそれぞれ少しずつタイトルは異なっている─コンサートで歌い、現在もYouTube で聴くことができるばかりか、いろいろなコメントがブログなどに書きこまれている。

 先に引いたいくつかのブレヒト・ソングはヴィアンがおこなった数多くの翻案のひとつにすぎない。そう言いきっても間違いではないかもしれない。風刺はあるが、曲調はたのしい。しかもリセ・コンドルセでドイツ語もしっかり学んでいたから、合衆国で歌われたのとは異なって、オリジナルのテクストに配慮した翻案だ。それでいて、もしかすると、とおもってしまうのだ。ただブレヒト・ソングをその他多くのポピュラー・ソングのひとつとして翻案しただけではなく、ヴィアン自身の「禁止」をくらったうたとのひびきあいを、政治・社会へとイロニーを、こめていたのかもしれない、と。

 

◇初出=『ふらんす』2016年10月号

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著者略歴

  1. 小沼純一(こぬま・じゅんいち)

    音楽・文芸評論家。早稲田大学教授。著書『ミニマル・ミュージック』『音楽に自然を聴く』

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