第12回(最終回) 「哲学者ナチュラリスト」ラマルク
ラマルク像台座のレリーフ
パリ国立自然史博物館の植物園をセーヌ側から入ると、腕を組み黙考するラマルク(J.-B. Lamarck, 1744-1829) の像が迎えてくれる。台座には「進化論の創設者 Fondateur de la doctrine de l’évolution」と刻まれ、その業績が讃えられている。動物や植物の種が変化するという考えはラマルク以前にもあったが、彼は『動物哲学 Philosophie zoologique』(1809)でそれに明確な理論をあたえた。「哲学」は、本連載の始めにも見たように今日意味するものとは異なり、知を事物の本質に導く指針であった。ラマルクはこれを追求することで生物学を打ち建て、曖昧な概念でしかなかった「進化」を科学的な問題として提示するに至った。一年の締めくくりとなる今回は、この最後の「哲学者ナチュラリスト」ラマルクの仕事を通して 18 世紀の科学精神の諸相を再度確認する。
『フランス植物誌 Flore française』(1779)で知られるようになったラマルクは、植物学はもとより化学、比較解剖学、古生物学、地質学、気象学など、当時の自然科学を網羅する研究を行っている。動物学に本格的に取り組むことになるのは 1790 年代、自然史博物館で「昆虫、蠕虫(ぜんちゅう)および微小動物」を扱う部門の講師に任命されたことがきっかけだった。
今日に至るまで顧みられることが少ないラマルクの化学研究は、しかしながらその仕事において重要な役割を担っている。化学の研究は彼が学界に登場する前から行われ、1790 年代に相次いで出版された。そこでラマルクは四元素説や原子論に基づく旧来の化学に与し、ラヴォワジエらの近代化学を激しく批判している。折しもまさにその新化学が学界を席巻していた時期、反響は芳しくなかったが、この化学的考察こそが彼独自の物質観、生物観を養ったのである。
ラマルクの化学にしたがえば、自然物はさまざまな物質の組み合わせからなり、最も純粋な物質である「元素」に分解される傾向を持つ。これとは対照的に物質を統合する傾向を持つのが動植物で、それらは外界の物質を体内で新たな物質に変えて生命維持に利用する。そして生命活動を終えた動植物は分解され、やがては無機物、最終的には「元素」へと還っていく。この地球規模でなされる物質循環系のなかで、化合物のほとんどが生命活動を介して作られるとラマルクは主張した。それまで動物と植物は科学的に別の対象で、生命はそれぞれを特徴づける要素でしかなかった。しかし、ここで動植物は物質循環に欠かせない役割を等しく与えられ、新しい学問の対象となった。「生物学 Biologie」の誕生だ。
生物学を近代的な意味で史上初めて定義づけたラマルクは、他方、独自の動物分類を試みている。ジュシューらと同様、彼もまたリンネの分類学に疑念を抱いていたのだ。彼は動物体制と器官の構造に着目し、その複雑さの度合いに応じてすべての動物を上下一列に配置した。一連の動物群が形成するこの大きな「梯子échelle」は、哺乳類から少しずつ段階を経てポリプ類にまで下降していく。そこには各器官が徐々に簡素化、消失し、体制の全体構造が単純になっていくさまが見られた。自然物すべてがひとつながりで「存在の連鎖」を成すという観念には以前触れたが、ラマルクの分類はその科学的回答だ。そして彼は「梯子」に地質学的な時の流れを当てはめた。浮かび上がるのは体制が複雑化していく過程、化学反応で生じた原生生物が膨大な時を経て諸々の器官を獲得し、多様な姿に変化していく歴史の縮図だった。現在の動物の様相に過去の時の流れを幻視するその科学的想像力は、「個別」的事実から「全般」的本質へという 18 世紀の理想を踏襲していた。
ここでラマルクの進化論の具体的なメカニズムを紹介しよう。1)生物の器官はよく使用されれば発達し、そうでなければ退化する。2)こうして得られた特徴は世代を越えて受け継がれ、やがて新たな種が形成される。それぞれ「用不用説」、「獲得形質の遺伝説」と呼び習わされるふたつの仮説はキリンの首の例で有名で、生物が環境に適応する動因を生物自体に求めるものだった。ダーウィンはこの自発的な適応を批判し、むしろ環境のほうが種を取捨選択していると考えた。この違いは彼らの出発点の違い、時代の違いでもあった。『動物哲学』が生命活動を特徴づける要素として進化を発見したのに対し、50 年後の『種の起源』は適応と進化を証明されるべきものとしてあらかじめ想定していたのである。ラマルク自身、「進化論」はおろか「進化évolution」という語すら使っていないという事実は注目に値する。
19 世紀、ビュフォンの死後「文」の支配を離れた自然科学は専門化、細分化の奔流にあり、総合的自然科学としての「自然史」は個々の学科へと解体される運命にあった。ラマルクの哲学も古臭い思弁と見なされ、これによって醸造された生物学と進化論は再発見されるまでに時を要した。晩年は理解者に恵まれず、長年の研究がもとで盲目になった彼を支えたのは二人の娘だった。冒頭に紹介した銅像の台座裏にあるレリーフは、娘のひとりがつぎの言葉で失意の父を慰める場面を描いている。「後世の人々が賞賛してくれます。復讐してくれますよ、お父さん」
◇初出=『ふらんす』2017年3月号