第9回 淡水ポリプ:ヒドラの「作成」
淡水ポリプ
ギリシア神話に登場する多頭の竜、ヒドラを読者もご存じだろう。切られたそばから首を再生させるこの怪物にちなみ、今日ヒドラと呼ばれるのは体長5ミリ内外、6から10本ほどの触手を有する水棲生物だ。1740 年の発見から 18 世紀をつうじて、もっぱら「淡水ポリプpolype d’eau douce」の名で知られたこの小さな生物は、それまで想定されてきた生物の常識をくつがえし、自然科学のみならずあらゆる分野で知の枠組みの再検討をせまることになった。今回はこの小さな「怪物」の発見とその影響にまつわるエピソードをとりあげよう。
発見者アブラハム・トランブレー(Abraham Trembley, 1710-1784) は、レオミュールに助言を仰ぎながらこの生物の詳細な研究をおこなったことで知られる。彼らが残した書簡でのやり取りは、未知の自然に対する戸惑いと興奮を生き生きと伝えていて興味深い。
偶然目にとまったこの存在は、動物なのか植物なのかさえ、にわかには判別しかねた。水草や綿毛のような外観、発芽の要領で増えるさまは植物を思わせるいっぽう、あきらかな被刺激性を有し、触手を使って獲物を捕食するさまはまさに動物だった。このような外見と生態のギャップにくわえ、当時動物としては規格外の再生能力がこの生物の謎をさらに深めた。胴体を横半分に切断すると、それぞれの部分は一週間ほどで別の完全な個体として再生したのだ。当初トランブレーはこれが動物だという考えに傾いており、切断された部分は死ぬだろうと考えていた。しかしそれらは、植物が挿し木で増えるかのように増殖したのである。
こうしたトランブレーの報告をうけ、自身でも同様の事実を確認したレオミュールはこれが動物だと結論し、淡水ポリプと名づけることを提案した。
「ポリプ」という名は、ギリシア語で「多脚」を意味し、もともとこうした外観をもつ海洋生物、イソギンチャクやサンゴ、タコなどを指していた。しかし欠損部分を再生する動物は知られていたものの、淡水ポリプのように、それがそのまま個体に変化してしまうものは例がなかった。トランブレーとレオミュールの慎重な科学精神は、彼らに四か月もの実験と観察の日々を課したうえで、ようやく未知の存在の命名を許した。とはいえこの進展は、この生物がそれまで自明とされてきたさまざまな概念に修正をくわえていく端緒に過ぎなかった。
淡水ポリプの発見は、自然誌で自明とされてきた植物と動物を区分する基準が明確ではないことを再認識させ、また自然物は鉱物から植物、動物にいたるまで、すべてが組成の複雑さの度合いに応じたつながりで成り立っているという考えを裏づける証拠として利用された。ボネ(Charles Bonnet, 1720-1793)はこの「存在の連鎖 Chaîne des êtres」から自然を解明しようとしたナチュラリストのひとりだが、トランブレーの従弟でレオミュールとも親交が深かった彼は、動物と植物のあいだをつなぐ鎖、「植虫 zoophyte」の典型をポリプに見ている。彼によれば、この大いなるつながりが形作るのは、人の感覚の前に差し出された「スペクタクル」としての自然とは異なる「もうひとつの世界」であり、それを覆っていたヴェールを剝ぎ取ったのが、ほかならぬトランブレーのメスだったのだ。
当のトランブレーはこうした哲学的観想はひかえ、実験に専念した。それは偏執的といってもいいほどで、1 センチに満たないポリプにとってはまさに受難だった。切断する回数を増やすことはもちろん、メスを入れる方向を変え、40 にも「細かく刻んだ」断片がすべて個体として再生することを確認すると、異なる個体の断片を貼りつけて「キメラ」を作る、体内をとおる消化管に沿って切り開いて紙片のようにする、さらには「手袋のように」裏返す、個体を他の個体のなかに収納する、胴の途中まで縦に切込みを入れ、文字通り多頭のヒドラをつくりだす、といったことを実行に移したのだ。
さて、「個 individu」という存在が、それまで「分割できない individu」なにものかに還元されうることが前提であったとすれば、淡水ポリプのようにどこまでも分割できる生命の「個」はどこにあるのか。18 世紀、こうした問いに魂が持ち出されることは多々あったが、出芽によって親、子、孫、ひ孫と 4 世代がつながった状態のポリプの魂はそれぞれにあるのか。それともこの「家族」全体にひとつの魂が宿っているのか。この「個」をめぐる問いは、生理学や医学の分野にも影響をもたらす。不随意で機能する人間の各器官をそれぞれ別個の有機体と仮定すれば、それらが集まった身体と意識との関係はどのようにとらえるべきか。ポリプの特異性に端を発した一連の問題は、個人と社会をめぐる政治哲学の新たな地平までをも切り開くことになる。
トランブレーが作ったヒドラやキメラは、科学的事実が「作成」される段階に入ったことを雄弁に告げる怪物だ。彼らが跋扈する「もうひとつの世界」は、実験をとおしてはじめてあらわれる。トランブレーにつぎのように書き送ったとき、レオミュールはそのことを直感していたに違いない。「あなたはわたしの要望どおりのヒドラたちを作りあげてくれました。」
◇初出=『ふらんす』2016年12月号