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中村英俊「科学的想像力の時代:18世紀フランス自然科学小史」

第11回 マケと近代化学


旧来の化学者の実験室

 科学史によれば、ラヴォワジエが象徴する近代化学は1780年代の酸素の「発見」を嚆矢とする。それまでの化学はアリストテレス流の四元素(火、空気、水、土)を基盤とするフロギストン説が主流だった。フロギストンは精妙な火の物質で、燃焼をはじめとする化学変化は、この物質が物体から飛散する現象だと考えられた。今回は、こうした旧来の化学を支持してラヴォワジエと対立したことで知られるマケ(Pierre J. Macquer, 1718-1784)の視点から、この急激な化学の転換期をとらえなおしてみたい。

 医術や産業などひろく実用に供される化学はなにより技術と結びつけられ、さらにその母体をなす錬金術の秘教的なイメージは払しょくし難く、アカデミーの科学とは一線を画すものとされてきた。しかし 18 世紀に高まりを見せる科学的専門性への意識は、これまで触れてきたように、知識ばかりでなく職人的技術にも価値を見いだした。結果、高度な専門技術をもって物質に働きかける化学者たちの研究は徐々に「公の科学」へと引き上げられることになったのである。

 こうした背景とともに化学の足場を強固にしたのがフロギストン説だ。18 世紀初めドイツ人医師シュタールが提唱したこの説によって、燃焼のみならず当時知られた大部分の化学変化は論理的説明が可能になったのである。そして同世紀なかば、この説はパリの化学者ルエル(Guillaume-F.Rouelle, 1703-1770)によって大々的に広められることになった。王立植物園でおこなわれた彼の公開講義は盛況で、受講者のなかにはディドロやルソー、コンドルセ、ジュシューらとともに、マケとラヴォワジエの姿もあった。

 科学アカデミーに迎えられたマケは、化学を他分野との関わりから総合的に研究しようとしていたようだ。日々報告される新たな発見を分野を問わず意欲的に取り入れ、その著作は版を重ねるたびに修正がくわえられた。化学の知識と趣向の普及を支えたその精神の柔軟さは、実用にも発揮される。王立ゴブラン織製造所の監督官としてマケは新たな繊維染色法を考案したが、それは議論が紛糾していた化学変化と物理変化、対立する双方の仮説の長所を併せ持ったものだった。

 マケは化学の分野における初の事典を書いたことでも知られる。『化学事典Dictionnaire de chimie』の初版は 1766年、最新の化学知識はもちろん、それに関わる科学技術のあらゆる分野に言及しようとする野心作だ。化学用語の統一も試みられ、その意志は後に近代化学の一翼を担うことになる。ここでもマケは軽やかだ。化学における物質が引き合う力「親和性 affi nité」を、万有引力と結びつけて考えた。条件つきであったとはいえ、物理法則と化学法則を同列に扱うことは当時画期的で、そこから彼は、たとえば腐食は物質の分解ではなくむしろ結合の作用だと結論する。

 『化学事典』の第二版は 1778 年に出版されたが、初版から 12 年を経た化学の発展にともない大幅に加筆修正されている。その間、ラヴォワジエは質量保存の法則を打ち出し、フロギストン説の弱点をつく研究を発表していた。すなわち、燃焼が物体とフロギストンの分解であるとすれば残る灰は軽くなるはずだが、金属の多くは熱をくわえて燃やすと、その灰は逆に重量を増すのである。密閉容器を使った実験で再度この事実を明確にしたラヴォワジエは、空気が金属と化学反応を起こしているとしか考えられないと主張した。つまり燃焼をはじめとする化学変化は、従来の化学の肝であるフロギストンなしで説明できることを示したのである。これに対しマケは、金属から発散したフロギストンに入れ替わるように空気が結びつくとして、フロギストンの存在は相変わらず想定しながら、この現象が分解ではなく化合であることを認めて新事実とのすり合わせを図った。

 マケはフロギストン説を完全に捨てることはなかったものの、ラヴォワジエを高く評価し、新たな化学の到来を期待しながらこの世を去った。もう少し長生きしたならば、ラヴォワジエとともに近代化学を先導する彼の姿が見られたかもしれない。いずれにせよ、マケが必要性を説いた化学用語の改革はラヴォワジエの一派によって推し進められ、1789 年、『化学原論 Traité élémentaire de chimie』で実現することになる。

 マケとともに『ナチュラリスト手引き Manuel du naturaliste』を著した植物学者デュシェーヌ(Antoine N.Duchesne, 1747-1827)は、彼の死後、同書の新版(1797)で時代遅れになった「元素」の項を書き改めている。新しい化学はフロギストンや四元素とともにこれまでの化学を葬り去った。より現実に即しているかもしれないが、明晩また新たな体系がこれをくつがえさないとも限らない。当代の化学も、つまるところ自然の真理を探る飽くなき想像力の産物でしかないのだ。この考察に続けて、デュシェーヌは科学的想像力のありようを年長の同僚への敬意とともに、つぎのように素描している。「こうした想像力の産物は人の精神を養い、視野をひろげ、知を豊かに発展させる[…]。空気、火、土、水の本質の十全な知識を授けてくれるような卓越した天才を待望するならば、それらを元素と見なすことも許されるのではなかろうか」

◇初出=『ふらんす』2017年2月号

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著者略歴

  1. 中村英俊(なかむら・ひでとし)

    明治学院大学非常勤講師。18世紀仏文学。

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