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中村英俊「科学的想像力の時代:18世紀フランス自然科学小史」

第4回 地球形状論争とカッシーニ一族


ジャック・カッシーニの長球説

 今回は測地学をテーマに話題はふたつ。ひとつは地球の形状に関する論争で、18世紀前半、パリ王立科学アカデミーを中心に巻き起こった。地球は南北の極がつぶれた扁球なのか、それとも両極に伸びる長球なのか。前者の説を主張するのが『プリンキピア』のニュートンで、後者はジャック・カッシーニが 1718 年に支持した説だ。発端は 1671 年、ジャックの父ジョヴァンニの時代までさかのぼるが、彼に始まるカッシーニ一族の偉業がもうひとつのトピックになるだろう。

 17 世紀当時、地球の形は真球と考えられ、疑問がはさまれることはほとんどなかった。パリ天文台長ジョヴァンニが仏領ギアナに派遣した天文学者と連携して地球と火星の距離を調査していたときのこと、パリで調整した振り子時計が、赤道付近では 1 日に約 2 分半も遅れたというのだ。この現象は赤道に近いほど重力が弱くなることを示すが、これを遠心力でいち早く説明したのが科学アカデミー会員ホイヘンスで、その後ニュートンが続いた。彼らは根本的に異なる論拠から考えていたが、それぞれ地球を構成する物質に条件をつけることで自転と遠心力のバランスを計算した。そして扁平率は違うものの、ともに地球は赤道方向にわずかに膨らむ扁球だと結論した。

 ニュートンがこの説を公にした頃、もともとフランス全土の精密地図製作のためにパリに招かれていたジョヴァンニは、その息子ジャック、甥のジャコモ・マラルディらとともに国土を南北に縦断する子午線の計測をおこなっていた。親子 2代 36 年にわたるこの仕事が完了したのは 1718 年、ジョヴァンニはすでに他界していた。たしかにニュートンは、緯度1 度あたりの子午線弧を測ってくらべたところで、地球の形状を決定づけられるほどの差は出ないだろうと予防線を張っていた。しかし苦労して測量した値は北で短く、南で長かった。誤差の範囲にもとれる値だったが、ジャックはこれを地球が南北に伸びる長球である証拠と考え、ホイヘンスやニュートンと真っ向から対立した。当のニュートンと縁故があったジャックだが、彼にとっては、父や従兄らとともに実際に土地を測って出た結果のほうが、ひとりの天才が机上で作り上げた論理よりもはるかに説得力があった。18 世紀の科学精神は、この集団による体を使った仕事、ひとりひとりが自然と対峙し、土や油にまみれた作業の積み重ねによって収集された科学的事実にこそ価値を見いだす。地球を構成する物質を密度が均等な流体と仮定する、などといった自然ではあり得ない条件のもとで計算された科学データなど、それらの前では何の用もなさない。

 地球形状論争は科学界をおおいに騒がせた。膠着状態のまま 10 年以上が過ぎた 1733 年、ジャックは息子のセザールらとともに国内の測地作業を再開する。得られた経線の値はやや決定力に欠けるものの、長球説に有利だったためさらに議論を紛糾させた。

 事ここに至り、国内の測地ではこの問題を解決できないとの意見で一致した科学アカデミーは、赤道と北極双方への遠征隊の派遣を決定する。1735 年、計画の発案者ゴダンはラ・コンダミーヌらとともにエクアドルへ出航、ニュートン主義の急先鋒モーペルテュイがクレローらとラップランドにむかったのはその一年後だ。彼らの調査は光行差や地球の歳差運動など、ジョヴァンニの時代には知られていなかった諸条件を考慮し、また入念におこなわれた測地には最新の器具が導入された。両遠征隊が持ち帰った数値に疑念をはさむ余地はなく、すべてが万有引力による扁球説を裏づけていた。

 科学史によれば、この勝利によってニュートン自然学はヨーロッパ大陸に確固たる足場を築いた。しかしこの時代の人々は、ひとりの天才が彼らの知をけん引するというそれまでの理想的イメージには懐疑的だった。地球の形状論争の顚末は、ヴォルテールが揶揄したように、ニュートンが外に一歩も出ることなく知り得たことをわざわざ危険を冒してようやく確認した、ということではない。「当代のアルゴー船員」たる遠征隊が見せる慎重さは、危険に対する備えというだけでは説明不足だ。また、細かな計画に幾度も変更をくわえ、あるいは何種類もの三角形を組み合わせて三角測量をおこなうなどした慎重さは、単なる理論と検証のすり合わせを目指していたのではない。彼らがもとめる科学的事実は、ある種の執拗さをもって彼ら自身の手でつくられねばならなかったのである。このことは、カッシーニ一族が世代を越え、修正に修正をかさねて完成させた近代地図の製作過程にも見ることができる。

 ラップランド隊が凱旋帰国すると、ジャックは敗北を認めた。パリ子午線を測量しなおし、その技術的誤りをただしたのは息子のセザールと弟子のラカイユだった。盲目になった父に代わり、セザールは部分ごとに完成した地図を出版しながら精力的に活動し、フランス全土をほぼ測量し終えて死んだ。この先祖代々の仕事の細部を詰め、「カッシーニ地図」とも呼ばれる計 182 面にのぼる世界初の大縮尺図を仕上げたのは、ジョヴァンニのひ孫にあたるジャン= ドミニクだった。1789 年のことである。

◇初出=『ふらんす』2016年7月号

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著者略歴

  1. 中村英俊(なかむら・ひでとし)

    明治学院大学非常勤講師。18世紀仏文学。

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