第10回 ドーバントンの描写理論
ライオンの「肖像」に付された図版
18世紀なかば、「自然誌」は、総合的な科学を目指しながら新たな自然観を提示する「自然史」へと展開した。これを象徴する『全般と個別の自然史 Histoire naturelle, générale et particulière』( 以下『自然史』)は、いっぽうで、自然の再現には文章の力が不可欠だとする著者ビュフォンの信念が色濃くもあった。その格調高い美文はひろい読者層に受け入れられて科学の普及に資するところもおおきかったが、知の細分化、専門化が意識されつつあった時代、当の科学界ではこうした著作を文学による科学の統合と見る向きもあり、反発も少なくなかった。
ドーバントン(Louis J.-M. Daubenton 1716-1799)はビュフォンと旧知のナチュラリストで、彼が『自然史』に寄稿した研究は、比較解剖学の先駆けともいわれる。今回は「文人」ビュフォンと対照をなす彼の仕事が、科学史上の画期をなす作品のなかでどのような役割を担っているのかを確認したい。
『自然史』は補遺も含め全 36 巻、40年をかけて出版された。なかでも「四足獣 quadrupèdes」を具体的にあつかう 4巻から 15 巻は、ドーバントンの仕事を抜きに語ることはできない。というのも、それぞれの項目はビュフォンが執筆する「記述 Histoire」と、ドーバントンによる「描写 Description」のセクションに分けられ、彼の仕事がいわば半分を占めるからだ。ビュフォンが対象となる動物の生態や人とのかかわりなど、あらゆる情報を盛り込みつつその活き活きとした場面を語った後、ドーバントンがその外観と諸器官を描写、解説をおこなう、というように各項目が構成されているのだ。
「動物の描写についてDe la description des animaux」はドーバントンによるモノグラフで、『自然史』の第 4 巻に収録されている。そこで彼は、分類ばかりが取りざたされる当時の自然誌の状況を批判し、「描写」の重要性を説く。特定の部位だけを恣意的にとりあげる分類とそれに基づく描写は、対象の定義を急ぐばかりで、結局その理解にはつながらない。リンネのように、歯、乳房、指、尻尾といった部分だけの描写で種を規定したところでなんになろう。それは自然物を抽象し、人間の偏狭な理解力がでっちあげた分類の枠に無理やり押し込む行為、観念の遊戯でしかなく、自然の理解どころかその研究の妨げにさえなっている。
「描写」は従来、論理学で「定義défi nition」に付随する概念として語られ、「不完全な定義」と見なされていた。ドーバントンはこの古典的な序列を反転させる。いわく、「ものの描写はその定義を含む」。動物を知ろうとすれば、その外観のみならず内部構造まで詳細に観察し、さらに同様の観察を経た他のさまざまな動物の情報を考慮したうえで描写しなければならない。つまり科学的描写は膨大な研究の積み重ねの末に可能であり、種を規定しうる特徴は恣意的に定められるのではなく、研究のなかから自ずと現れてくるものなのだ。さまざまな動物を観察し、動物の「全般」に共通する特徴と、種に「個別」な特徴を見いだして描写する。このように、分類学批判に始まるドーバントンの描写理論は「全般と個別」の哲学をビュフォンと共有していた。
ドーバントンによれば、動物の描写は実践においてふたつの形式に分けられる。すなわち動物の平静状態を描く「肖像portrait」と、捕食行動や戦闘などの活動状態を描く「場面 tableau」だ。前述した四足獣の各項目の構成に当てはめれば、前者を彼が、後者をビュフォンが担当していることになるのだが、ドーバントンは「肖像」の重要性を強調する。何にもわずらわされない状態にこそ動物本来の性質を認めるべきで、またその「容貌 physionomie」の観察は、種に特有の性格を知るうえで欠かすことができない。獲物に襲いかかるライオンの「場面」は、躍動する筋肉や眼力から、その獰猛さと力強さ、そして気品が強調される。いっぽう同じ野獣が「肖像」では頭が比較的大きく見え、空腹でなければ怠惰で、その「容貌」も狐のそれが示すような明敏さはなく、豚にも共通する愚鈍ささえうかがえる。相反する性質を持つライオンだが、「場面」の印象ばかりが先行し、「肖像」の本性が顧みられることは少ないとドーバントンは指摘する。「場面」はドラマチックで一般の読者にも受けがよく、その詩的イメージだけで挿絵の類は必要ないのに対し、「肖像」は言葉では表現し難い部分を図版で補う必要がある。その読解はときに退屈で、「自然の研究を欲する人々」の興味をしかひかない。さらに優れた「肖像」は、外観に反映される内部器官のメカニズム研究のうえに成り立ち、そのためには解剖につきものの「生理的嫌悪」を克服しなければならないのである。この「描写」の二項対立は単なる形式の違いを越えた、「文」と「理」の対立なのだ。
退屈で「生理的嫌悪」さえともなうと意識されつつ、科学的知はここでも文学からの脱却の動きを見せる。しかし、異なる動物の諸器官をその機能とともにひき合わせるという比較解剖学の基本理念は、「全般と個別」の深淵に挑んだふたりの 18 世紀人のなかに等しく息づいていたのである。
◇初出=『ふらんす』2017年1月号