第8回 美文家ナチュラリスト、ビュフォン
ビュフォンによる「ウマ」の記述
18世紀、「自然誌 histoire naturelle」は「スペクタクル」としての自然観を背景に科学の専門性をあきらかにしていった。自然の「外観」を重視しながら、こうした展開に貢献したリヨネのような科学者とは対照的に、自然の「内奥」を追求する人々もいた。今回の主人公ビュフォン(1707-1788)もそのひとりだ。
王立植物園長を務めたビュフォンは、これをヨーロッパ随一の研究機関へと発展させ、現在の国立自然史博物館の基礎を築いたことで知られる。ニュートンの影響で科学界に入った彼は百科全書派とも近く、知を刷新しようという壮大な意図のもと自然と対峙した。彼にとって、自然物の網羅的な記録をめざすだけの従来の「自然誌」は科学ではない。彼が科学と認める histoire naturelle は、天地創造から万物の不変を保証する自然ではなく、近代的な時間のスケールで再定義されたもので、「自然史」と訳すべきものであることは以前触れた。今回はビュフォンが新たな科学を提示しながら、どのように進化論への布石を打つことになったのかを見ていこう。
単に Histoire naturelle と略されることが多いビュフォンの主著は、正式なタイトルを『王の標本館の描写による全般と個別の自然史』Histoire naturelle, générale et particulière, avec la description du Cabinet du Roi という。王立植物園付きの標本館をヨーロッパ一のコレクションを誇るまでに拡張させたのは彼の功績で、タイトルを見ればそれを紹介する図鑑の類であることは誰の目にもあきらかだった。しかし 1749 年に出版された最初の 3 巻は世人の予想を裏切るものだった。そこには自然科学の方法論、扱うべき諸対象の概論が並べられて動物への具体的な言及はなく、かわりに「ヒトの自然誌」と題されたモノグラフで締めくくられていたのである。
この 3 冊 1800 頁に及ぶ「長大な緒論」を貫く原則は、自然の研究は自然そのものを手本にしなければならないということだった。小さな羽虫がこの広大な自然のなかでどれほどの位置を占めるか考えてみよ、そんな「取るに足りない」もので頭を満たす者を、果たして真のナチュラリストと呼べるだろうか。自然物を知るには描写を積み重ねるだけでなく、それらの相互関係、環境とのかかわりなど、あらゆる要素を大局的にとらえることが肝要だ。さらに、こうして分析された事物の現状は、直線的に流れる膨大な時間のなかの因果の途上にあるものでしかなく、自然の「偉大なる働き手 Grand Ouvrier」である「時」にかかれば、「全てあり得るものは、ある Tout ce qui peut être, est」ことがわかるだろう。「個別」の事象を「全般」的にとらえる方法、それは自然の営みから導き出された必然にほかならない。
こうした「自然史」は議論をよんだ。なかでもその中核をなす地球の起源と生物の発生に関する説は、根拠となる科学的事実を欠いた「体系 système」の典型として批判されることになる。 ある学説をでっちあげの「体系」と評して科学的価値を貶めるレトリックは盛んだったが、ビュフォン本人も利用している。そのおもな矛先はリンネに代表される分類学で、ここでも彼は自然に範を求めている。繁殖可能な「個体の連続」を「種」と認めることはできるにせよ、そこから上の階級区分は恣意的なものでしかない。ライオンとネコを同じカテゴリーに分類して把握することは、人間の限られた能力に見合ったものに自然を歪めることにはなっても、自然を理解することにはならない。
だとすれば、ウマとロバの関係はどう説明すべきだろうか。外見も性格も対照的でありながら、解剖学的にはほぼ同じ形態を持つ彼らが異なる種であることは確かだが、不妊の交雑種を為す。これらの事実から、ビュフォンはロバに「退廃したウマ」の姿を見、「退廃dégénération」による生物変成論を説いた。時とともに複雑化する生物体制や自然淘汰の概念はまだなかったことに注意しよう。当時 6000 年程度と考えられていた地球の歴史を大幅に延長し、時とともに変化する環境を多様な種を生む実験室とした点ではモーペルテュイも同じだった。しかしビュフォンは、ロバが「人類史上最も高貴なる獲得物」たるウマから派生したように、ウマもより高貴な「原種 souche」が退廃するかたちで枝分かれして今に至っているとした。事実、骨格を備えたあらゆる動物は構造のうえでは同一であり、一種の原型にまで辿ることさえできるのだ。
「文は人なり Le style est l’homme même」の格言どおり、ビュフォンはそのダイナミックな思想と自然の姿を荘重な美文で著した。言葉が紡ぐイメージで自然を再現し、思考を言葉にして共有し知を養う能力は、人間とあらゆる動物とを隔てる。こうしたヒトの孤高は、ビュフォンがあらゆる面でこだわる「高貴さ」の極致だった。犬が秘めた「無欠の感情」、獅子が見せる「百獣の王」たる威厳、象という「知性の奇跡と物質の怪物」、近代科学では対処しきれない動物たちの本質は、「文」とともに立ち現れる。彼の筆致はそれを見事に証明している。
◇初出=『ふらんす』2016年11月号