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北山亨「鬱な画、アートが僕の処方箋:躁鬱25年の記録」

第2回 黒い塊

 1997年11月30日、アメリカ・ロサンゼルスにある日系企業で若い男性社員が失踪しました。彼は数千万円のプロジェクトのコーディネートを担当していたので、残された社員達はその後の対応に追われ、直属の上司は方々に頭を下げて回ることになりました。失踪前、彼は上司に仕事を辞めたいと何度か懇願していましたが、それは無理な話でした。そんな簡単に会社を辞められるわけはありませんでした。そしてその社員、26歳の北山亨は逃走したのでした。


セルフポートレート(1996)

 躁鬱の波は、鬱の周期にどっぷりと入り込んでいて、谷底をさらに深く削り、僕はどん底に堕ちている。谷底が深いほど浮上するまでに時間がかかる。浮上するには「軽さ」が必要になってくる。当時、僕の症状を軽くしてくれたのは、絵を描くという創作行為や、タバコの火を体に押し付けるという自傷行為でした。しかし、その時はすでに手遅れでした。僕は限界に達していたのです。鬱を辞めるか、仕事を辞めるか、どちらかしかありません。「鬱を辞める」とは、病んでいた僕にとって「自殺」を意味していました。ロサンゼルスは車社会、車道は広く、かなりのスピードを出す車もある。飛び込んでみようか……。

 僕はむかし、飛び込んだことがある。小学3年生の頃、僕は自転車に乗ってどこかへ向かっていたのですが、何か嫌なことでもあったのか、気分が沈んでいきました。そして僕は「もう死んでしまいたい」と思ったのです。この先に交差点が見える。死角の交差点。迷いはありませんでした。一気に加速して、猛スピードで交差点へ突入。僕は車にはねられました。自転車もろとも何メートルも転がっていきました。近くの酒屋や駄菓子屋から店員や客が駆け寄ってきて現場は騒然となりましたが、僕は死んでいませんでした。死ぬどころか、ほとんど無傷でした。運転手は恐怖で青ざめていましたが、僕の無事を確認すると、今度は怒りのせいか赤くなっていきました。彼は僕を家まで送り、母に何やら文句を言って帰って行きました。母は僕を叱りませんでした。ただ不安げな表情で僕を見つめているだけでした。以前に僕が投げかけた「疑問」を思い出していたのかもしれません。「どうやったら死ねるの? ねえ、どうやったら死ぬの? 息を止めて、ぐううってなったら死ぬの?」母が何と答えたのか憶えていません。ただ、軽く頷いていたような、そんな記憶が残っているだけです。


無題(1997)


無題(1997)

 26歳になっていた僕は、飛び込むことができませんでした。夜のロサンゼルス。ダウンタウンへ通じる大通りの路肩に立ち、僕はひとり、走り抜けるヘッドライトを目で追っているだけでした。涙が溢れてきました。死ぬことができない。死ねないのだから、生きていかなければならない……。僕は去って行きました。遠くへ消えてしまいたかった。ニューヨーク、この街しか思い浮かびませんでした。バスと列車を乗り継いで大陸の反対側まで丸3日、3人での逃走でした。仕事から解放された自分、罪悪感に拘束された自分、そして鬱な自分。


無題(1998)

「アメリカの社会は西と東にしかない、真ん中にあるのは自然だけだ」そんなことを聞いたことがあった。こうして列車でアメリカ大陸を横断しているとわかる気がする。停車駅を発つとすぐに広大な自然が姿を現し、それはどこまでも続いている。いまにも馬に乗った先住民が登場しそうな光景でした。それが孤独な逃亡者「トム・ソーヤの冒険」のインジャン・ジョーだったり、「カッコーの巣の上で」のチーフだったりしたら、僕も一緒に……。

 横断2日目、車中で日本人バックパッカーの青年に声をかけられました。彼は会話に飢えていたのか、目をキラキラさせて自身のアメリカ旅行記を長々と語り始めました。それから彼は日本とアメリカの違いについて力説をはじめます。なぜアメリカはこんなに合理的なのか。なぜアメリカ人はこんなに主張が強く、すべてに白黒つけるのか。僕は頷きながら、19歳で渡米した頃の元気だった自分の姿をこの青年に重ねて見ていました。僕は彼にこんな話を紹介しました。ロサンゼルスの映画学校でのこと。脚本のクラスで講師がこんなことを言っていた。「アメリカではハッピーエンドの映画が好まれるが、日本ではトラジックエンド(悲劇的結末)の映画が好まれる」 青年は面白がって聞いていた。そして、映画監督ポール・シュレイーダーの言葉も。「アメリカ人は気が狂うと窓を開けて銃を乱射する。日本人は気が狂うと窓を閉めて自決する」 青年はケラケラ笑いだしました。「真逆ですね! まったく! 貿易摩擦が起こるわけだ」と言ってまた笑い、バックパックからお菓子を出してムシャムシャはじめました。僕はこのタイミングで「疲れているので少し寝ます」と寝たふりをしました。ちょっと付き合い過ぎてしまった。僕にとって「会話」はとても辛い作業になっていたのです。列車がシカゴに着くと彼は降りていった。僕は空いた隣の座席を使い、久し振りに体を横にして休みました。眠りに落ち、はっと目が覚める。会社の夢をみるのです、何度も何度も。谷底で僕は、汚れた黒い塊になっていくようでした。


無題(1998)


無題(1998)

 12月3日、ニューヨークに着きました。風の強い寒い夜でした。僕はここで、帰国するまでの6ヶ月間、社会との接点をなくし、吐き出すように絵を描きました。ときどきの外出も、僕の鬱や罪が皮膚からにじみ出ていて、他人に見られてしまうのではないか、という不安に悩まされました。結局このニューヨーク生活で、僕がまともな会話を交わすことになるのはたった2人。間借りしていたアパートの大家でロシアから移住してきた修理屋のロイさんと、拒食症を患いながらロサンゼルスから逢いに来てくれた元恋人のユリさんでした。
 皮肉にもその頃、テレビでは長野冬季オリンピックが華々しく放送されていました。鬱な僕が生まれた場所。故郷が遥か遠くに感じられました。


無題(1998)

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著者略歴

  1. 北山亨(きたやま・とおる)

    1971年、長野県松本市生まれ。1990年渡米。UCLAで映画制作を学び、ロサンゼルスの映像プロダクションに勤務。英国画家フランシス・ベーコンに影響を受け96年頃から独学で絵を描き始める。1997年ニューヨークに移り住み、本格的に創作活動を開始。1998年帰国。

    2000年 個展(松本市)
      グループ展(六本木)
    2001年 個展(大町市/京橋)
      グループ展(京橋)
    2002年 個展(京橋)
      グループ展(松本市/渋谷/船橋市/京都市/京橋)
    2003年 個展(ひたちなか市/銀座/松本市)
      グループ展(京橋)
    2019年 個展(安曇野市/松本市)

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