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北山亨「鬱な画、アートが僕の処方箋:躁鬱25年の記録」

最終回 寛解

 2015年3月のある日、僕は母を連れて大学病院の脳神経内科へ来ていました。母は1月に認知症と診断され、治療のために通院を始めていたのです。この日は妻にも付き添ってもらいました。母は日頃から妻との会話を楽しんでいたので、通院の心労が少しでも和らげばと思ってのことでしたが、待合室の長椅子に3人で腰掛けていても、これといって会話は弾まず、母はうつむいたまま、何かに耐えるようにじっとしているのでした。


鬱な画 第4期「寛解」(2019、画廊BANANA MOON)
Photo by Nachi Yamazaki

 グエッ、それは突然やってきました。母は体を上下にぴくぴく振動させて「グエッ、グエッ」と鳴き始めたのです。魔物にでも取り憑かれたのか、視線を遠く一点に置き、今度は体を左右に揺らし始めます。僕らがあっけにとられている間に揺れはみるみる大きくなって、母はもう椅子から落ちんばかりになっている…… と、次の瞬間「ブギャ!」と吐き出すように鳴きながら、体をブンっとこちらへ投げると、しなった勢いで飛んできた母の顔が僕の目の前でぴたっと止まる。歪んだ唇の端から舌先を垂らし、半分白眼をむいた母の顔がありました。
 唖然としました。いったい何が起きたのか……。一瞬間の沈黙のあと、母はスッと元の位置に戻り、肩をすくめてこう言いました。
「あっ、いけないこと言っちゃった」
「……」
「亨が小さい頃、よくこうやって、かまってた…… 死んだふり……」


無題 (2019)

 


親と子 #1 (2019)

 


親と子 #2 (2019)

 死んだふり…… 僕が小さい頃…… 母は死んだふりを繰り返して、僕をかまっていた……。僕は妻を見ました。彼女も了解したようでした。僕の謎はついに解かれたのです。この母の奇怪な行為こそ、僕が追い求めていたミッシングピースだったのです。何度も何度も襲ってきた母親の死……、僕の記憶の奥底に葬られていた屍が、一体一体、告白の口の中へと吸い込まれていきました。帰還したのです。


鬱な画 第4期「寛解」(2019、画廊BANANA MOON)
Photo by Nachi Yamazaki

 


無題 (2019)

 


無題 (2019)

 


詩集「蝶と九つの詩」より

 母の告白は醜いものでした。あの醜い死顔……、あらわになった母の嘘。母はわかっていたのです。僕は以前、何度か尋ねていました、「僕が小さい頃、何かなかった? あの悪夢の原因を知りたいんだ」。悪夢とは僕が幼い頃、頻繁に見ていた「恐怖の感覚」に襲われる夢で、この悪夢は僕の鬱と直結しているとずっと睨んでいたのです。しかし母は「何もなかった」と悠々やり過ごしてきたのでした。あの日病院で見た死んだふりの「実演」とあの悪夢にはまったく同じ空気感が漂っています。あなたが悪夢の正体だったのです。なぜもっと早く告白できなかったのでしょうか。


無題 (2019)

 母の告白は美しいものでした。巻き戻る記憶の渦に消えてしまう前にこの記憶を救ってくれたのです。僕が悪夢の原因について尋ねてからの十数年間、いつか告白しようと思っていたのでしょう。それが認知症と診断されて決心がついたのですね。それにしても、なぜあのような行為を繰り返したのでしょうか。何があなたをそうさせたのでしょうか。はっきりしたことはわかりません。おそらくあなたにも。告白は一度きり。あれからあなたがこのことについて口を開くことはありませんでした。


デビルズハット (2019)

 記憶とは奇妙なものです。これは最近知ったことなのですが、あの日病院で告白の一部始終を目撃していた妻の記憶では、母は告白の途中、何度もクスクス笑っていたというのです。グエッ、グエッと鳴いて、体を揺らしているうちに笑いがこみ上げてきたらしく、実演を中断して口に手を当ててクスクスと笑っていた……。僕にはそんな記憶はまったくありませんが、もしそうだったとしたら、また違った見方ができるのかもしれません。だとしても、それはそれでいいのでしょう。それにしても、人の心理というのも本当に奇妙なものです。


無題 (2019)

 告白から6年が経ちました。母は認知症が進行して、世の中がコロナ禍であることも知りません。お団子が大好きで、「陸上の選手だった」が口癖です。たまに僕の顔をまじまじと見て「どちらさん?」とふざけてから大笑いして、「笑うことはいいことだ」と言ってみせることもありますが、最近では子供のような振舞いがめっきり多くなってきたように思われます。そんな無邪気な母の姿を見ていると、実際の幼少期もこんな風だったのかと思いがめぐり、これからもう一度大人に成長していくような気さえして、またそんな想像を一層広げて、子供のいない僕にとってはこれが初めての子育てになるな、と思って少し緊張したりする。またはシンプルに、僕は時空を超えて母の幼少期を訪ねているのだという錯覚を起こしてみると、さて、この子がやがてあんな風に死んだふりをするのだろうかと疑問に思う。いや、そんなはずはない、きっと母さんも解かれたのではないか、こんなに素直で明るい魂なのだから。

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著者略歴

  1. 北山亨(きたやま・とおる)

    1971年、長野県松本市生まれ。1990年渡米。UCLAで映画制作を学び、ロサンゼルスの映像プロダクションに勤務。英国画家フランシス・ベーコンに影響を受け96年頃から独学で絵を描き始める。1997年ニューヨークに移り住み、本格的に創作活動を開始。1998年帰国。

    2000年 個展(松本市)
      グループ展(六本木)
    2001年 個展(大町市/京橋)
      グループ展(京橋)
    2002年 個展(京橋)
      グループ展(松本市/渋谷/船橋市/京都市/京橋)
    2003年 個展(ひたちなか市/銀座/松本市)
      グループ展(京橋)
    2019年 個展(安曇野市/松本市)

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