第1回 ふたりの自分
2019年4月から、僕は16年振りに個展を開催しました。地元、長野県安曇野市の山麓にある画廊BANANA MOONで、8ヶ月の間、連続で4回の展示をするという前代未聞の企画展でした。タイトルは「鬱な画(うつなえ)」。25年間の躁鬱の中で描き続けた絵を、病状と対応させて展示するというこの企画の生みの親は「週刊新潮」表紙絵画家であり、画廊BANANA MOON主宰の成瀬政博さんでした。「鬱な画」。僕のタイトルだ。ストンと胸に落ちました。寛解した今なら正面に立つことができる。ここで一度振り返ろう、過去と向き合い、すべてを結んでおこう、そう思いました。
画廊 BANANA MOON
Photo:Nachi Yamazaki
「鬱な画」に出逢うまでのこの16年間、創作は続けていましたが、個展をしようとは思いませんでした。発表するという行為につきまとう「煩わしさ」が嫌だったし、またその意味もわからなくなっていました。しかし、絵を描いていると、発表したいという欲求が湧いてくることがあります。そんな時、僕は「脳内展示」をするのでした。単なる空想なのですが、それで十分満たされていました。実体のない「画家 北山亨」はそうして生きてきたのでした。
僕が実際に個展をしていたのは2000年から2003年の4年間でした。その頃の僕は躁状態のときが多く、とくに東京初個展開催中は極度の躁になっていました。初日、2日目と盛況でしたが、3日目から客足が途絶えます———アメリカ同時多発テロ事件が起きたのです。画廊オーナーは「誰も来ないー!」「次は東京がやられるー!」「北山君ついてないねー」などとブツブツ言っていましたが、僕はとりわけ何とも思わず、ハイテンションをキープしたまま、空っぽな画廊のフロアに大きな紙を広げて、ちゃっちゃと絵を描いていたのでした。ちょうどその頃発表されたボブ・ディランのアルバム、「Love and Theft(愛と盗み)」を聴きながら。今考えるとゾッとします。僕は社会とこんなにズレていたのです。
しかし、この展示を機に次々とオファーがきました。2003年には、ひたちなか市、銀座、松本市と連続で個展をするまでになったのですが、その後、僕は鬱のどん底に落ちていったのです。何も出来なくなりました。人にも会えず、画廊からの電話にも出ることができませんでした。そしてそんな自分を責め、さらに悪化していきました。後でわかったことですが、このとき「北山亨は死んだらしい」という噂が流れたそうです。僕は「画家 北山亨」を捨て去ったのでした。
あれから長い年月が経ち、時代は変わりました。ミュージシャンであるボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞しているし、ツイッターが世の中を動かしたり、ドローンがミサイルを発射したりしている。そしてこの僕は寛解に至たり、当時お世話になっていた画廊のオーナーとも再会を果たすことができたのでした。
「あれっ? 北山君! どうしたの? 何か違うー! 変わったねー!」
オーナーは点検するように僕をじっと見ていました。
「わかった!北山君!わかった!1回死んでる!1回死んでるよね!」
はっとしました。そうかもしれない、僕は1度死んだ……。生まれ変わったんだ。
企画展「鬱な画」。僕はこの展示を25年間の躁鬱症状に合わせて4期に分けました。
第1期「吐出」:1990年代の鬱の時代
第2期「混濁」:2000年代前半の躁の時代
第3期「沈黙」:2000年代後半の鬱と引きこもりの時代
第4期「寛解」:2015年から2019年の寛解と覚醒の時代
展示作品総数:175点
第4期「寛解」展示風景
Photo:Nachi Yamazaki
正面に立つ#2
残る影
(第4期「寛解」より)
展示準備は半年がかりの大変な作業でしたが、それはちょっとしたタイムトラベルのようで、僕を楽しませてくれました。25年間の作品や記録を掘り出して、何度も何度も見返していく。次第に部屋中が過去で溢れかえり、あちらこちらで時代が折り重なっていく、点と点が結ばれていくのです。そんな冒険のさなか、僕はある発見をすることになります。押入れの奥に閉じ込められていた新聞———炎上する世界貿易センタービル———アメリカ同時多発テロを報じた2001年9月12日の朝刊でした。君はこういうかたちで残していたんだ。あの頃の君は、この事件の正面に立つことができなかったのかもしれない……。負は負を誘発し、苦しみを蘇らせるから……。
僕がはじめて鬱のどん底をさまよったのは、1997年アメリカ・ニューヨークでのことでした。渡米して7年、僕は26歳になっていました。
ふたりのポートレート#2
ふたりのポートレート#1
(第4期「寛解」より)