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北山亨「鬱な画、アートが僕の処方箋:躁鬱25年の記録」

第3回 表出

 僕が暮らしていたのは、マンハッタンから地下鉄で30分、クイーンズ区のジャクソンハイツにあるレンガ造りの古いアパートでした。このアパートのことを思い返すと、今でもその「匂い」が生々しく蘇ってきます。建物内にいつも漂っていた、茹でたジャガイモの匂い。それはここジャクソンハイツが多民族の街であること、そして同じ民族が寄り添って暮らしていること、を現しているのでした。茹でたジャガイモの匂いは、そのアパートの住人の多くがロシアからの移民とその子孫だったからです。僕が間借りしていた部屋の大家さんもロシア人で、彼もよくジャガイモ料理を作っていました。
 大家さんは50代半ばの独り暮らし、熊のような体をした大男で、名前はロイといいました。彼の英語の発音からしてアメリカに来て5、6年、ソビエト崩壊後の移住者だろう。セントラルヒーティングが暑いとみえて、ロイさんはいつも裸でした。仕事は家電の修理屋さん、リビングルームにはテレビやビデオデッキ、ラジオなどの電化製品がバラバラに解体されて散らばっていました。


無題(1998)


記憶の痕跡(1998)

 ロイさんが僕にとって理想の大家さんであることはすぐにわかりました。入居時に「仕事を探している」と適当な嘘をついた僕に対し、彼はこんな調子でした。「これからは修理の仕事がいい。世の中は物で溢れている。そいつらがどんどん壊れていく。壊れるから修理屋は儲かる。ガッハッハ」。ガッハッハの乾いた笑いのあと、彼は真顔になり修理中の家電へと視線を落としました。ガッハッハは、彼なりの「会話の終わり」を表明しているようでした。彼は社交的なタイプではありませんでした。いやらしい詮索も、わざとらしい挨拶もありません。僕はまったく干渉されず、部屋に閉じこもることができたのでした。


傷(1998)

 南向きの6畳ほどのスペースに、ベッド、テーブル、イス、小さな冷蔵庫と旧型のテレビが備え付けられた部屋で、僕の閉じこもり生活は始まりました。シャワーとトイレは共同でしたので、ロイさんや、たまにやってくる彼の知人に遭遇する可能性がありました。シャワーは誰もいない間に済ませるとしても、トイレはそうはいきません。僕はフタ付きの瓶を用意して、人の気配があるときは、部屋で小便をすることにしていました。
 僕の世界はこの部屋に閉塞されて、外部との衝突はありません。あるのは内部での衝突。僕は過去にのみ込まれ、僕であることに耐えられない……。頭の中ではセルフヘイトが湧き上がり、もういっぱいになる。どうしてこうなってしまったのかと考えて、いや、考え過ぎるのは良くないと、考え過ぎる原因についてまた考える。グルグル回って僕は、何も出来なくなる。そういった症状は定期的にやってくる。そうなると僕は、3日ほど寝込む。寝込むと少し楽になる。今思えば、これはちょっとした自然治癒的な行為だったのかもしれません。現実世界において思考や感情が負の重い扉に閉ざされてしまった時、眠りに就くことで無意識的に扉の鍵を探す。そうやって自然と情勢を変えていく。思考や感情を流していく。そして吐き出すことができるようになる。それをそのままに、描いていく。僕は描きました。無意識に描きました。そしていい絵ができると、そっと自分を褒めてみる。バラバラな自分が認め合い、内乱を治めていくのです。画材は近所の雑貨屋で買った安物ばかり。描ければそれで十分でした。2ドルのスケッチブックに1ドルのボールペンで。コピー用紙に穂先の不揃いなブラシで。新聞やフリーペーパーをコラージュして、疲れたら窓の外をぼんやりと眺めました。


無題(1998)

 無意識に描いた絵にどんな意味があるのか、僕はあえて謎解きはしません。しかし無意識だからこそ、無垢で露骨な姿が具現化されているため、後になって不意にその作品の源流らしきところへ連れて行かれることがあります。2019年、画廊BANANA MOONで展示をした2つのシリーズ、「手」と「ストレートヘアーの少女」がまさにそうでした。ロイさんのアパートで描いてから21年後のことです。


鬱な画 第1期 「吐出」 展示風景 (2019、画廊BANANA MOON)

 「手」のシリーズは、僕の祖母と深い関係があるようです。僕はもともと左利きでしたが、「字は右手で書くもの」という祖母の方針から、幼い頃に矯正を受けることになりました。左手で字を書いていると「左手はダメ!」とよく叱られたものです。そのうち僕は左手を哀れに思うようになり、精神的バランスをとるためか、右手に対し嫌悪感を抱き始めました。結局、僕は「左と右は別々なもの」と考えるようになったのでした。唯一の救いは絵や図形を描くとき。このときは左手での筆記用具の使用が認められたのです。僕は小さい頃から絵を描くことが好きでしたが、その根底にあったのは「左手を使いたい」ということだったのかもしれません。僕は「手」という不思議な存在に支配されながら、描くことで本来の自分を取り戻していたのでしょう。

シリーズ「手」(1998)

 ストレートヘアーの少女。この少女が元恋人のユリさんの残像だと気付いたのは「この絵にモデルはいるのですか」という展示会来場者の質問を受けたときでした。そんなことを考えたこともなかった僕は、何気にこの少女を眺めてみることにしました。すると、実に自然な状態でユリさんが現れたのでした。僕らはロサンゼルスで共に病んでいました。彼女は拒食症を患っていて、会う度に痩せ細り、次第に髪の毛が抜け落ちていきました。きっかけは些細な車の接触事故でした。相手のアメリカ人女性と言い争いになり、こう罵られたのです。「あなたはどうせ不法移民だろう! 移民局に通報してやる!」 実際、ユリさんは不法滞在者でした。もし通報されたら……恐怖が彼女の精神を蝕んでいきました。あの時の彼女の姿が僕の負の感情に誘発されて「ストレートヘアーの少女」となったのでしょう。

シリーズ「ストレートヘアーの少女」(1998)

 コンコンコン、ある日ノックがありました。初めてのノック、ロイさんでした。訪問の礼儀なのか、Tシャツを着ていました。数日留守にする、ロング・エディという街へ行き、山の水を汲んでくる、とのことだった。「水汲み?」僕がそんな顔をすると彼はこう言った。「そこらで売ってる水は誰が汲んでるか知ってるか? 知らんだろう。俺も知らん。だから信用できん。俺は俺が汲んだ水しか飲まん。ガッハッハ」 しばらくぶりの会話でした。そうだ、聞いてみよう、僕は咄嗟に思いました。僕には以前から気になっていたことがあったのです。それは僕の部屋とリビングルームをつなぐ廊下の壁に掛けられていた6枚の「叫ぶ絵」のことです。10号ほどのキャンバスいっぱいに、叫ぶ人間の口元が赤い絵の具で荒々しく描かれていて、ところどころ白っぽい歯のような、骨のようなものがある。はじめてこの絵を観たとき、イギリスの画家フランシス・ベーコンが瞬間的に浮かびました。絵画の衝撃を僕に与えた最初の画家です。「あの絵は誰が?」僕は聞いてみました。「あ、あれか、あれは昔ここにいた奴が描いて残していった……」 ガッハッハもなく、大きな背中が静かにフェードアウトしていきました。何かがあった。何があったのか。この作者はいったい誰なのか。ロイさんは知っている。でも詮索はよくない……
 昔ここに画家がいたんだ。あなたの絵は今も叫んでいる。僕はテーブルに向かい、スケッチブックを広げました。「絵画とはキャンバスに投影された作者自身の神経系統の柄である」と僕らに遺してくれた、フランシス・ベーコンを想って。


無題(1998)

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著者略歴

  1. 北山亨(きたやま・とおる)

    1971年、長野県松本市生まれ。1990年渡米。UCLAで映画制作を学び、ロサンゼルスの映像プロダクションに勤務。英国画家フランシス・ベーコンに影響を受け96年頃から独学で絵を描き始める。1997年ニューヨークに移り住み、本格的に創作活動を開始。1998年帰国。

    2000年 個展(松本市)
      グループ展(六本木)
    2001年 個展(大町市/京橋)
      グループ展(京橋)
    2002年 個展(京橋)
      グループ展(松本市/渋谷/船橋市/京都市/京橋)
    2003年 個展(ひたちなか市/銀座/松本市)
      グループ展(京橋)
    2019年 個展(安曇野市/松本市)

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