第4回 解放
ニューヨーク閉じこもり生活が2ヶ月を過ぎた1998年2月、テレビでは長野冬季オリンピックが放送されていて、僕はその様子を眺めながらペン画を描くことに集中していました――。
テレビはワンドア冷蔵庫の上から、ボリュームをいっぱいに絞り、映像だけをチカチカと発している。ときどき冷蔵庫からブーンと聴こえてくる。僕は反対側、窓際のテーブルでカリカリと短い線を引いている。オリンピックはどうでもよかった。僕がテレビに観ていたのは風景だった。競技の間やコマーシャル明けに映し出される故郷の風景。懐かしいな。懐かしさを感じるなんていつ以来だろう。手を止めて画面に観入る。北アルプス、善光寺、松本城……。チカチカ、映像がまた競技に切り替わり、僕も短い線に戻ってカリカリとやる。ノスタルジーの余韻に浸りながらも、ギリギリ現実に引き込まれないように僕自身が線であるようにいる……。ブーン。そうだな、続かないだろうな、こんな恍惚とした時間も、逃避的な行為も……。
そして、オリンピックが閉会を迎える頃、現実はやってきました。ロサンゼルスのユリさんから手紙が届いたのです。「なるべく人と話すように」「暖かくなったら遊びに行きます」そうありました。
無題(1998)
1週間前に出した手紙の返事がこんなに早くかえってくるなんて、逃走後の生活をあえて明るく綴ったことが、かえって彼女を心配させてしまったのだろうか。ちょっといけなかったな。1週間のうち数日は寝込み、夢では逃げた会社の上司や同僚に追われて、食事はジャンクフードとジャックダニエルで、あとはただ絵を描くだけの人間、そんな人間はいったいどんな顔をして人様に会うのだろうか。僕には見当もつかない。考えれば考えるほどわからなくなる。僕はグルグル廻り続け、ついにパンッと弾けました。これで現実が変わるかもしれない! 僕はある計画を思いついたのです。
計画はこうでした。僕はカバンを持って外へ出る。カバンには絵が詰まっている。500枚はあるだろう。地下鉄に乗り、アートの中心地マンハッタン・ソーホーへ行く。ずらりと建ち並ぶ画廊、とりあえず端から入ってみる。僕はオーナーと挨拶を交わし「絵を観ていただけませんか」と言ってカバンを開ける。オーナーは驚いたように目を見開き、喜びをあらわにする……。いい計画だ。とてもいい。でもちょっと待って、カバンがないじゃないか……。画廊での大事なシーン、パカッと開くアタッシュケースタイプのカバンが必要だ。せっかくなら作品専用のキャリーケースがいいだろう……。僕はすぐさま近くの電話ボックスへ行き、電話帳から画材店の住所を調べ、地下鉄に乗りました。そして数時間後には作品専用キャリーケースを手にアパートへ戻ってくるのでした。早速、絵を入れてみた。完璧だった。サッとテーブルに置いて、金具を2つパチンとやってパカッと開く。ついに絵が解放される。僕は高揚しました。
無題(1998)
数日後、僕はマンハッタン・ソーホーにいました。キャリーケースを持って画廊の街を歩いていました。さあ、行こう。僕はある画廊に入って行きました。そこは50平米くらいの広さで、展示スペースの真ん中に大きなテーブルがあり、奥の方ではオーナーらしき中年男性が机に向かって何やら作業をしていました。僕はしばらく展示作品を観て廻りながら、オーナーと挨拶を交わすタイミングを計っていました。なかなかタイミングがつかめない。僕は2周目に入っていく。もはやオーナーの様子を伺いながらテーブルの周りを廻っているだけでした。そうして3周目に入ると、さすがにオーナーも視線を感じたのか、グルグル廻る怪しい影に気づいたのか、しかもそれが真新しいキャリーケースを持ったアジアの青年で、さらにそのケースは定番の作品専用キャリーケースだと遠目にも分かったのでしょう、オーナーは軽いステップで近寄ってきてこう言いました。「何か観せたいものでもあるのかな?」 ギョッとしました。固まってしまいました。恐怖でした。僕は床の一点を見つめたまま、何とか首を左右に振って、そのまま画廊を出て行きました。これが現実だったのです。声も出ないし、パチンもパカッもない。あるのは恐怖だけでした。対人恐怖。さらけ出す恐怖。「人と話すように」ユリさんの言葉が頭に浮かびました。もう帰ろうよ。一からやり直そうよ。帰国を決意した瞬間でした。
無題(1998)
ユリさんがニューヨークに来たのは4月でした。7日間の滞在中、彼女は僕を毎日連れ出してくれました。スタテン島、ブルーマンショー、イーストヴィレッジ、世界貿易センター、グッゲンハイム、イサムノグチ美術館……、僕らはずっと一緒でした。ふたりとも楽しんでいました。彼女の拒食症も僕の鬱も少し良くなっているようでした。ユリさんがロサンゼルスへ戻った3日後、僕はニューヨークを発ちました。真新しいキャリーケースを持って歩き出したのです。ケースの中の絵が解放されるのは、それから2年後のことでした。
わたしのいるところ(1998)