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インタビュー「「その他の外国文学」の翻訳者」

第21回 ベンガル語:丹羽京子さん(1/4)

 非ヨーロッパ人で最初のノーベル文学賞受賞者がだれかご存じだろうか。イギリス植民地時代のインドで生まれたラビンドラナート・タゴールだ。タゴールは80年の生涯のうち、60年以上に渡ってベンガル語で詩、小説、戯曲、随筆と多分野での創作を続けた。自作の英訳も自ら行い、代表作『ギータンジャリ』(ベンガル語発音では「ギタンジョリ」)やほかの詩集から選んだ詩編からなる英語版『ギータンジャリ』がアイルランドの詩人、イェイツの目に留まったことがノーベル賞受賞のきっかけとなった。この偉大な詩人は2000曲以上もの歌曲の作詞作曲も手がけており、それらは「ロビンドロ・ションギト」(タゴール・ソング)と総称される。インドとバングラデシュ、両方の国歌にタゴールの曲が使われてもいる。作品の質、量ともにほかに類のない、まさに文学の巨人である。
 日本でも、タゴール作品は英訳からのものを含めて、邦訳はこれまでにいくつか出されている。評伝『タゴール』(清水書院<Century Books人と思想>、2016年)を著した丹羽京子さんも、大学生時代にタゴール作品と出会って以来、研究を続けてきた。だが、丹羽さんがこれまで主に翻訳出版してきたのは、タゴール以後のベンガル文学だ。「タゴール以外にも、近現代のベンガル文学にはいい作品がたくさんあるんです」と語るように、丹羽さんの照準は先達のタゴール研究者たちとはちがうようだ。

翻訳のない文学を読みたくて
 ベンガル語はバングラデシュの国語であり、インドでも西ベンガル州を中心に使われている。この両地域に暮らすベンガル語話者をベンガル人ともいう。話者人口は2億6500万人と多い。バングラデシュから日本に移住して働くひとも増えており、身近なところではバングラデシュ料理店も増えた。存在感は小さくない。だが、ベンガル語に目を向けると、ほとんど知られていないのではないだろうか。
 ベンガル語やベンガル文学を専門的に学べるのは、丹羽さんが教える東京外国語大学だけだ。まだ発足して10年の若い専攻課程だ。丹羽さん自身も、東京外国語大学でベンガル語に出会った。そしてベンガル語が専攻語として開講されて以来、教壇に立ってきた。日本のベンガル語教育を支えてきたといえる丹羽さんが、このマイナーな言語に出会ったのは、「マイナーさ」をある意味でねらった結果だ。
 丹羽さんは小さい頃から文学が好きで、特に海外の作品を読んできた。大学も、外国文学を読めるようになりたい、という動機から東京外国語大学が選択肢に浮かんだ。せっかくなら、翻訳されていなくてほかのひとが読めない、自分だけが原文で読めるような作品と出会えるといい。専攻語をひと通り見渡したとき、インドなら読めるひとが少ないだろう、それでいて面白い文学も必ずあるだろうと考え、ヒンディー語専攻を選んだ。
 最初はヒンディー文学を研究するつもりだった。学部3年生のとき、「チャーヤーワード(陰影主義)」と呼ばれる詩人の一群が、タゴールの影響を大きく受けていることを知った。タゴールの名前はもちろん知っていたが、「インドの文学のなかでもこんなに影響力があるんだ」と興味を引かれた。当時、ベンガル語の授業はオプションとして週に1回半年間だけ開講されていた。それでは文学作品を読むには不十分だったが、ヒンディー語と言語の系統としては近いところもあるということで「ちょっと強引に独学で」学習を続けた。大学に教えに来ていたのはアジア経済研究所の佐藤宏さん。勉強会を開いてもらい、「アジ研」のほかのメンバーと一緒に学んだのだ。しかし佐藤さんの専門は政治史や経済学。農民運動に関する資料などをテキストに講読した。
 教材にも不便した。かろうじて、大学のアジアアフリカ言語文化研究所の奈良毅先生が作成した簡易的な文法書を手に入れた。それに加え、やはり奈良先生が大学書林から出した会話練習帳があった。しかしそれでもどうにもならないのが音声教材だった。音声を聞けないまま文字だけで学ぶが、正しい音が認識できない。
 ベンガルとは縁の薄そうなハワイ大学が、カセットテープ付きの教材を出版していると聞き、入手。ようやくベンガル語の音を聞くことができた感想は「すごい衝撃でした。音感がヒンディーとベンガルで全然ちがうんですよ。音の感覚がすごく好きになって」。似た音の繰り返しが多く、リズミカルに聞こえる。脚韻を踏むことが大好きで、ことわざや普通の会話でも脚韻が意識されている。ベンガル人はだれもが詩が好きだと言われる理由が丹羽さんのなかで腑に落ちた。
 丹羽さんは「ベンガル語は学びやすいですよ」と学習をおすすめしてくれる。なぜかというと、ヒンディー語とちがい、名詞が性をもたない点がわかりやすい。語順も日本語に近い。なので、少し留学した学生や、バングラデシュに仕事で赴任したひとも、ちょっとしたことなら短い期間で話せるようになることが多いという。新しい文字を覚えるハードルがあるが、これは2、3週間の短期集中で勉強すれば覚えてしまえる。実際、いま丹羽さんが教える学生もこの方法で習得しているらしい。
 難点はどうだろうか。文字の表記どおりに発音しない語が少なくない。しかも、ふつうの辞書には発音記号が示されていない。日本語での辞書は現在でもないが、インドやバングラデシュでは英語ベンガル語辞書は手に入る。ただし、これは基本的にベンガル人が英語を学ぶための辞書で、英語にはベンガル文字で発音が示されているが、ベンガル語には発音が示されていない。なので、書かれた文章を正しく音読できるかどうかが、習熟度のひとつの目安となるそうだ。


コルカタのカレッジ・ストリートには古本屋や出版社の販売所が軒を並べる。学生や研究者のみならず多くの本好きが集まる。

>次のページ:ベンガル語でベンガル文学を学ぶ/身体からベンガル語に染まる/翻訳は研究の副産物ではない

【お話を聞いた人】

丹羽京子(にわ・きょうこ)
東京外国語大学教授。東京外国語大学修士課程修了、ジャドブプル大学比較文学科Ph.D.取得。専門は近現代ベンガル文学、比較文学。著書に『ニューエクスプレスプラスベンガル語』(白水社、2018)、『タゴール』(清水書院、2016)。訳書にショイヨド・ワリウッラー『赤いシャールー』(大同生命国際文化基金、2004)、編訳『地獄で温かい バングラデシュ短編選集』(大同生命国際文化基金、2019)など。

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