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インタビュー「「その他の外国文学」の翻訳者」

第1回 ヘブライ語:鴨志田聡子さん(1/4)

翻訳大国と言われる日本。日本からは、なかなか情報にアクセスしづらいマイナー言語でも文学は綴られている。それらマイナー言語の文学を読めるのは翻訳者がいるからだ。あえて狭き門をくぐり、そして今度は広くしようと努めているのはなぜか。マイナー言語の翻訳者のみなさんに、「その他」の深さを尋ねるシリーズ連載。

 

 社会言語学者、鴨志田聡子さんは、昨年、イスラエルのYA小説『アンチ』で翻訳家としてデビューした。原書はイスラエルでの出版ということで、ヘブライ語で書かれている。決して多くはないイスラエル文学、ヘブライ語の翻訳者が誕生したことは、ガイブン読者にはうれしいニュースだ。こんなニッチな世界に飛び込んでくれた鴨志田さんにぜひヘブライ語にかける思いを聞こう、というつもりだった。
 しかし意外にも開口一番、「ヘブライ語は苦手、できればやりたくないと逃げてきたのが正直なところなんです」。
 このことばの裏には、もともとの専門がイディッシュ語ということがある。ヘブライ語にかかわるようになったのは成り行きに近い。それが翻訳まで手がけるようになったのは、どういういきさつだろうか。
 「君、イディッシュやりなよ」。鴨志田さんがイディッシュ語に出会ったのは、恩師・田中克彦さんのこの思いつきのようなひと言がきっかけだった。大学で社会言語学に出会った。ことばを軸に社会のしくみや活動を考える学問だ。学部を終えて、修士課程に進もうと決めたときのことだった。
 イディッシュ語は、いまのドイツのライン川流域あたりで生まれたことばで、ユダヤの人々が使ってきた。ナチスを極めつけとする度重なるヨーロッパでの迫害を逃れたユダヤ系の人とその子孫が、移住した先の国々、アメリカを筆頭にカナダ、オーストラリア、南米で使っている。もちろん、ユダヤ人が建設した国家であるイスラエルでも話者が多い。ドイツ語と近い関係にあるが、ユダヤ人のことばなので、ヘブライ文字を使うほか、聖書にも用いられたヘブライ語やアラム語由来の単語が含まれているのが特徴だ。
 もともと学んでいたドイツ語に近いことばということもあって、面白そう、学んでみようと思い立った。ところが日本では勉強できる環境がない。とりあえずネットで調べると、リトアニアの夏期講座が見つかったので、飛び込んだ。はじめて生で聞くイディッシュ語に興奮したし、それを学ぶクラスメイトに刺激を受けて、このことばにのめりこむ。
 次は、ニューヨークにも講座があると聞き、そこに参加した。そしてその次に学びの場として選んだのが、イスラエルのヘブライ大学への留学だった。

仕方なくはじめたヘブライ語
 リトアニアでもニューヨークでも、イディッシュ語の受講生はユダヤ人が多い。だから当然、ヘブライ語を話す人とも知り合っていた。しかし「母音が書かれてないんですよ。難しいですよね。できればやりたくないなあって敬遠してたんです」とのこと。
 イスラエルの公用語であるヘブライ語は、ヘブライ文字を使って記す。ただしこの文字が示すのは基本的には子音だけで、母音は一部の音しか示されない。子ども向けの文章などには、母音を表す記号が付されることはあるが、基本的には記号無しで読めるようにならないといけない。系統としては、アラビア語と近く、ドイツ語などヨーロッパのメジャー言語とはしくみが異なる。
 クラスメイトとはイディッシュ語や英語で交流してきた。しかし、とうとうイスラエルに行くということで、勉強しなくてはと観念した形になる。日本で少しだけ予習をして、あとは「ウルパン」と呼ばれる現地のヘブライ語クラスに飛び込んだ。
 本当はイディッシュ語のことをやりたいのにという気持ちもあってか、ヘブライ語への苦手意識は強く、テストも嫌で仕方ない、先生も嫌いになりかけたと笑う。ヘブライ語で調査をし、翻訳をしているいまの姿からは想像ができないが、継続は力なりという励みにもなるエピソードだ。
 「でも勉強するための環境は最高でした」ともいう。イスラエルは移民が多いので、ヘブライ語を学習中の住民も多い。ヘブライ語が上手な人たちはみんなほかの学習者たちに寛容で、しかもどんどん励ましてくれるのだ。買い物をするときやバスに乗るときの会話でヘブライ語を使う。たとえつたなくても、「なんでそんなに上手なの?」と言ってくれるし、間違っていればやさしく直してくれる。質問されるたびに自分はこういう理由で、どういうところでヘブライ語を学んでいるんだ、と返事をしているうちに、「ヘブライ語を学ぶ自分」としてのプロフィールがだんだんできてくる。コミュニケーションがどんどん生まれてきて楽しめるようになったと振り返る。

イスラエルで暮らすということ
 授業で印象的だったことに、先生が軍隊のシステムを説明したときのことがある。それに学生が反発をしたのだ。
 「特にアメリカやヨーロッパからの学生がすごく反発しました。自分たちはことばを学んでいるのに、なぜ国の体制とか思想を押しつけるようなことを教えるんだって言うんです」。
 たしかに、授業に軍隊の話をもちこむことには、違和感がある。それでも先生は「カリキュラムにあることだから」とか「大事なことだから」と退かない。
 しかし、後になって鴨志田さんはこれは残念だが必要なことだったかもしれないと考えるようになった。イスラエルに移住してきた、あるイディッシュ語話者にインタビューをしたときのことだ。その人は移住してくる前からヘブライ語を学んでおり、かなり堪能だった。しかし、それでもイスラエルの国のシステムはなかなか把握できない。自分の家族や友人が兵役に就かないといけないと考えると、軍隊のシステムは知りたい、教えてほしいことだと話したのだそうだ。
 この国に暮らす人にとって軍隊は生活の一部、ライフプランの一部だ。ヘブライ語の授業の目的をイスラエルで暮らすためと考えると、必要な知識はことばだけではない。

母語としてのヘブライ語
 イスラエルにはいろいろな国から移住してきた人がいる。共通語であるヘブライ語が上達したことで、イディッシュ語だけでなく、ほかのことばを第一言語とする人に聞き取り調査ができるようになった。聞き取りをした人たちの多くに共通するのは、祖父母、親、子と世代ごとに第一言語がちがうことだった。たとえば親はアラビア語話者だったけど、自分たちとはヘブライ語で話した、というようなことだ。祖父母や親と自分の世代の第一言語が違うのは、イディッシュ語話者から聞いた境遇とまったく同じだった。「それまでイディッシュ語にのめりこむばかりで、ほかのことばのバックグラウンドをもつ人たちのことをまったく意識できていなかったんです。ヘブライ語でそれに気づけたのは大きかったです」。
 ヘブライ語は、ユダヤ教の聖書の言語であり、シオニズムという思想ともイスラエルという国家とも結びついた強い言語として重視されている。鴨志田さんがインタビューしたひとりに、イディッシュ語新聞を発行していた人物の息子がいる。息子である彼自身はイディッシュ語を話さない。イディッシュ語での出版に情熱を燃やしていた親だが、息子をヘブライ語で育てたのだ。彼は流暢な英語で「英語とヘブライ語どっちでインタビューしたい?」と聞いたが、鴨志田さんはヘブライ語を選んだ。イスラエルでは英語ができる人が多いが、踏み込んだ話をするにはヘブライ語がよいと考えたからだ。鴨志田さんはイディッシュ語を話せないのは残念ではないかという質問をした。彼は「それは当然そう思うし、父の新聞を読んでいた人もヘブライ語を使うようになってしまったのは本当に残念だ」と答えた。このイディッシュ語新聞は政府から圧力をかけられ、紙の供給を止められた。ヘブライ語を選ばざるをえなかった人がいるのであり、また自ら進んで選んだ人もいるのだ。
 これはイディッシュ語を学んでいたときのことだが、鴨志田さんの印象に残ったことがある。「ある研究者が、祖母はホロコーストを経験しているらしいんだけど、母はそれを自分には語ってくれなかった。だけど、自分は何が起こったかを知りたい、と言うんですね。その研究者以外にもそういう人がたくさんいて、親や祖父母たちが語らなかった戦争やホロコーストの体験を、自分たちで跡をたどろうとしているんです。リトアニアでのクラスでも、休み時間にそれぞれが戦争のときの家族についての情報をシェアすることがあって、だんだん過去に何があったか、誰と誰がどこそこの同じ土地にいた、というのがわかってくるんです」。言語を学ぶことを通して、知識だけでなく新たなつながりが広がる。
 こうしてイディッシュ語にのめり込んでいった鴨志田さんのなかには、はじめはヘブライ語は仕方なくやるという気持ちがあった。しかし、ヘブライ語に強い思いを抱いて、大切にしている人がいることがわかってきた。ヘブライ語でいろいろな人と話すことで、これまで自分の中にあった尺度が相対化されてきた。

 
ヘブライ語の勉強に使ったテキストとノート

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(聞き手・構成:webふらんす編集部)

【お話を聞いた人】

鴨志田聡子(かもしだ・さとこ)
日本学術振興会特別研究員、東京外国語大学他講師。1979年、静岡県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。専門は社会言語学、ユダヤ人の言語学習活動。著書に『現代イスラエルにおけるイディッシュ語個人出版と言語学習活動』(三元社、2014)、『イスラエルを知るための62章[第2版]』(共著、明石書店、2018)、『Pen BOOKS ユダヤとは何か。』(共著、CCCメディアハウス、2012)。翻訳家としては『アンチ』(ヨナタン・ヤヴィン、岩波書店、2019)でデビュー。

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