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インタビュー「「その他の外国文学」の翻訳者」

第9回 タイ語:福冨渉さん(1/4)

 2020年に人気が爆発したジャンルがある。タイのドラマ、とりわけBLと呼ばれる、男性同士の恋愛を描いたドラマだ。のめりこむことを「タイ沼/タイBL沼にはまる」という表現まで登場した。
 この人気を受けて、ある人気ドラマの原作小説の翻訳が日本でも刊行された。しかし、それがタイ語原書からではなく、英語版からの翻訳であることに、一部のファンから落胆の声が上がっているというニュースを耳にした。
 原書から翻訳してほしいという気持ちはわかる。ただ、タイ語から訳せる翻訳者が、実際問題としてすぐに見つかるのだろうかという疑問は浮かぶ。書店に行ってみればひと目でわかるが、タイ文学もやはり「その他の外国文学」に分類される、マイナーな分野なのだから。
 そのなかで2019年にウティット・ヘーマムーンの『プラータナー』(河出書房新社)、2020年にプラープダー・ユンの『新しい目の旅立ち』(ゲンロン)と、2年連続でタイの現代作家の作品が翻訳出版されたのはうれしい例外だ。2冊ともに、翻訳を手がけたのが福冨渉さんだ。
 「BLドラマファンの方の学習意欲はすごく高い気がします。最近自主制作したZINEを買ってくれたなかにも、そういうファン層がかなりいるみたいなんです」と福冨さんが教えてくれた。タイの文化に興味をもつ人の裾野が広がりつつある。しかし一方で、「文学のことを共有できる世代の近い仲間がいないんです。タイ文学を専門にしているのは、自分の世代以下だとほとんどいません。」という翻訳者事情も明かしてくれた。
 日本とタイのつながりは深い。しかしその往来を支えるのはほとんど経済ベース。タイの文学や芸術、映画やエンターテインメントなど、文化コンテンツが日本で紹介される機会はまだまだ少ない。また、タイに暮らす日本人も多いが、日本人コミュニティもできあがっているため、タイ語に堪能な人は決して多くない。
 福冨さんがタイ語を学んだのは東京外国語大学のタイ語専攻である。その環境であっても、まわりはほとんどがタイの社会、経済といった分野に関心をもっていた。
 「まわりに自分のやっていることを共有できる人がいなかったんです。指導教官の宇戸清治先生だけ」というように、タイの現代文学を研究した福冨さんは少数派なのだ。

タイ語との出会い
 福冨さんがタイに触れたのは高校生のときだった。タイの教育省との協定により、タイの国費留学生が各クラスに来ていたのだ。福冨さんは彼らとなんとなく馬が合った。
 また、所属していたモダンジャズ研究部の先輩に、東京外国語大学のタイ語専攻に進んだ人がいた。その人の話を聞いて進路への意識が芽生えた。せっかくまわりにこんなにもタイ人がいるし、これもなにかのめぐり合わせかもしれない。
 「ヨーロッパの言語をやってもあまり食い扶持にはつながらない、これからやるならアジアの言語のほうがいいという感覚はありました」と、現実的な打算も働いた。もっとも目論見については、「父には中国語かベトナム語がいいと言われたのを無視したんですが、いま考えるとそっちのほうが生活するのにはよかったのかもしれませんね」と冗談めかして振り返る。
 タイからの留学生の友人たちは、あらかじめ日本語を学んできていたので、コミュニケーションは日本語で交わしていた。なので福冨さんがタイ語を学び始めたのは大学に入ってからだ。
 タイ語にはふたつの難関がある。文字と声調だ。文字は、子音文字だけで44文字ある。けた外れに多いわけではないが、仕組みが複雑である。発音が同じ文字がいくつかあるし、文字が語頭にあるのか語末にあるのかで発音が変わる。そしてこの文字が、5つある声調と組み合わさる。いわく「手がかりがない感じ」なのだという。週に5~6時間、タイ語の授業があり、それを半年やってようやく終えられるカリキュラムだった。
 文字の習得にそんなに時間がかかると、退屈してしまいそうにも思える。ただ、福冨さんの姿勢としては、大学生なんだから、自分で考えて、自分でやってしまえばいい、というものだった。なので自らどんどん先に進んで勉強した。授業で使う教科書は先にやってしまう。図書館にいけば参考書もある。辞書は文字がわからないと使えないのだが、まず一冊買っておいて損はないと手に入れた。
 まだタイには行ったことはなく、タイという地域のことがわかっていたわけではないが、タイ語は学んでいて楽しかったし、高校のときのタイの友だちとタイ語で話したい、というのが動機になった。

「語劇」でタイ語に目覚める
 東京外国語大学の名物と言えば、学園祭での「語劇」だ。2年生が中心になって、各専攻語の言語で演劇を上演する催しだ。福冨さんたちが上演したのは、野田秀樹さんの『赤鬼』。1996年初演の作品で、日本以外にイギリス、韓国、そしてタイで、それぞれ異なるバージョンで上演されてきた。偶然にも、タイから来ていた留学生が、このタイ語版の翻訳に関わっており、脚本を簡単に手に入れることができた。福冨さんは演出を担当。セリフをすべて覚えなくてはならない大役だが、それがタイ語の階段を一気に上るきっかけになった。
 いくらタイ語専攻といっても、大学2年生では戯曲のセリフは難しい。練習を重ねる。そのうちに、最初は壁であった声調が、「響きがきれいだし、そこに意味がのっているのはすごい」と思えてきた。「声調は歌みたい」と楽しめるようになった。さらに、「詩的なことばをタイ語でも表現できるんだ」と気づけた。
 この『赤鬼』という作品自体が、ある共同体に流れ着いてきた人間が、ことばが通じないことをきっかけに排除されてしまうというストーリーだ。ことばとコミュニケーションを題材にした作品を通して、タイ語に目覚めたわけで、その後翻訳者となる福冨さんにとって、偶然だが予感めいた巡り合わせだ。

マイナーかつニッチなタイ文学
 2年が終わるころ、タイに1学年のあいだ留学することを決める。福冨さんが現地で所属したのはいわゆる人文学部のタイ語学科で、タイ人がタイ語を学ぶところだ。しかし、そのカリキュラムは意外な内容だった。ラジオの聞き取りをして、タイ人が書き間違えやすい単語をテストしたり、作文を添削するといった授業だったのだ。
 「外国人である自分にとってはいい勉強になるんですけど、ネイティブの大学生にとってそれは楽しいのかな? と驚きましたね。ただ逆にいえば、タイ人にとっても、高校まででタイ語を体系的に学ぶようになっていないんだと理解しました」。
 思えば日本で授業を受けているときも、あまり体系だって教えられてはいないと感じたことはあった。たとえば、なぜこの接続詞を入れるのか、疑問に思って先生に尋ねても、「タイ人はそうするものだから」という感覚的な答えが返ってくる。ほかのタイ人に聞いても同じような答えだった。論理でしくみを理解するというより、表現を覚えるしかない。
 想定していた留学とは少しちがったが、規則だけでものごとはつくられるわけではない。そうわかると、日本にいたときと同じで自由にやればいいんだと、気負わずに学ぶことができた。語劇で一段上に行けた感覚を忘れないうちにタイに留学できたことで、タイ語の向上にうまくつながった。
 この最初の留学をした時点では、まだ大学院に行こうとは特に考えてはいなかった。しかしいわゆるタイ文化、現代のカルチャーに興味が出てきていた。ちょうどそのころ、指導教官である宇戸清治先生が、タイの現代作家プラープダー・ユンの短編集『鏡の中を数える』(タイフーン・ブックス・ジャパン、2007)を翻訳、刊行した。こうしたいまのタイを知るには、現地にいかないと触れられないなとも感じるようになった。タイ語をちゃんと使えるようになりたいという気持ちもあり、大学院への進学を決めた。
 「宇戸先生からは、絶対に大学院には来るな、絶対に食えないから来てはいけないとかなり強く言われました」と明かす。ほかのタイ語専攻の学生は、現代の文学や文化を研究しようとする人は少なく、ほとんどが社会・経済系だった。タイ文学をテーマにする福冨さんの卒論ゼミは、基本的に宇戸先生と一対一という状況だったというニッチな分野だから、「絶対に食えない」という助言にも説得力を感じる。


大学1年生のときに購入した『タイ日大辞典』と、大学3年次に留学したバンコクで購入した『日・タイ辞典』。留学中は毎日この2冊を持ち歩いていた。

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【お話を聞いた人】

福冨渉(ふくとみ・しょう)
タイ文学研究者、翻訳・通訳者。タマサート大学教養学部 Research Fellowを経て、東京外国語大学大学院総合国際学研究科博士後期課程言語文化専攻単位取得退学。鹿児島大学特任講師などを経て、現在は株式会社ゲンロンに所属。翻訳にプラープダー・ユン『新しい目の旅立ち』(ゲンロン、2020)、ウティット・ヘーマムーン『プラータナー:憑依のポートレート』(河出書房新社、2019)、ノック・パックサナーウィン「トーン」(奥彩子、鵜戸聡、中村隆之、福嶋伸洋編『世界の文学、文学の世界』、松籟社、2020)など。著書に『タイ現代文学覚書』(風響社、2017)など。
ウェブサイト: https://www.shofukutomi.info/
Twitter: https://twitter.com/sh0f/

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